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オートバイの旅日誌(玉井洋造の旅1976) [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

※1976年8月から1979年12月までの日誌を書いていきます。

記載は、下記のブログに変更します。

http://tamatabi1976.blog.so-net.ne.jp/archive/c2305813202-1


(1) アラスカハイウエー(USA)

地図・タイトル写真


1976/08/02

 出発の前日は、東京の下宿で寝た。4畳半の部屋の家具類は

、大阪の実家に送り返してある。何もない部屋は、夏なのに寒

々としていた。畳には陽光に焼けた跡が残っている。旅のザッ

クだけが部屋の隅にごろりと横たわっていた。


 窓をあけたまま、畳の上に大の字になって寝た。畳から8年

間の東京での青春が匂ってきた。この旅のために、何もかも投

げ捨てた。会社も7か月前にやめていた。その準備中のことを

思い出しながら眠ってしまった。

1976/08/03

 1976年8月3日の夕方、友人と駅前の食堂でカレー丼を食べ

た。この旅へ出る日本での最後のめしだ。自分ひとりの旅にふ

さわしいと思った。こっそりと日本を出たい。しかし、空港に

は多くの先輩や同僚たちが見送りに来てくれた。結婚して一年

目の女性の先輩に「タマイちゃん、タマイちゃん。頑張ってね

」とキーキー声をかけられ、苦しい旅へ出ようとしているボク

の意気込みを足払いしてしまった。「タマイちゃん」じゃ恥ず

かしくなってしまう。

 東京からサンフランシスコへ飛ぶ。自分の隣には、かわいい

女の子がふたりいて、楽しい旅の始まりだったが、機内はエン

ジンの音がうるさくて、一睡もできなかった。


 シスコでカナダのバンクーバー行きの飛行機に乗り換える。

いちばん最後に降りたものだから、2時間半の乗り継ぎ時間は

、たちまち過ぎ去り、空港係員に付き添われて廊下を走った。

荷物検査もそこそこに飛び乗った。やれやれと思っているうち

に、バンクーバーに到着。たくさんの計画書を見せて、2か月

半の滞在許可をもらった。外へ飛び出すと、すでに11時半。

空港の待合室で寝ようか。ホテルを探すにもまったく見当もつ

かない。今日は特別だと、タクシーで安ホテルへ連れて行って

もらった。

 バンクーバー市内は、高層ビルが立ち並んでいた。ちょうど

出勤時間。人々は忙しく行ったり来たりしている。そんな人た

ちに混じって、20キロのザックを背に船会社を探した。ザッ

クの中はバイクの部品ばかりで、シリンダーも2つ入っていた

。信号待ちしているのが苦しいぐらいの重さだ。こんなにすご

い荷物で、バイクは大丈夫かなと不安になる。なにしろ、わず

か250ccのバイクだ。

 港の税関倉庫で書類をそろえ、バイクの受け取りの成功。倉

庫の前で梱包の木枠を分解する。そこで働いている人たちが大

きな斧などを使って手伝ってくれた。きのうは旅の足であるバ

イクがなくて、寂しかったが、もう嬉しくて、無我夢中でバイ

クを箱から取り出した。バイクには一滴のガソリンの入ってい

ない。倉庫の人たちは、手伝ってくれたばかりか、ガソリンま

でくれた。代金を払おうとしても受け取らないのである。

 バイクにすべての荷物が、なんとか乗っかった。自分のすわ

るスペースはほとんどない。ガソリンタンクの上に半分乗っか

る格好だ。

 バンクーバー市内を走りだす。右側通行だ。注意して走った

。そんなことが、いっそう外国を走っているという気分にさせ

る。ビルの谷間を縫って、きょろきょろしながら進んだ。

 バンクーバーで日本人の家庭に3日間滞在し、市内のあちこ

ちを走り回った。時どき左折の時に左車線に入ってしまい、前

方から車が来るのでびっくりした。ガソリンスタンドはセルフ

サービスというのもあって、どうやってよいものか分からず困

ってしまった。

 アラスカへ旅立つ日の朝、バイクが盗まれてしまった。(あ

あ、旅はもう一巻の終わりか。)

 なんてことだ。市内はどこを走っても美しく、良い町だった

。住宅地は整然としていて、きれいな前庭が続き、とても泥棒

なんていそうにない。バイクの鍵を掛けることもなく、家の前

の道路に放置したまま寝てしまった。そしてアラスカへ向かっ

て出発する日の朝、バイクがなかった。まったく恥ずかしい話

だ。

 ラッキーにも、泥棒さんは子供らったらしく、裏の通りに転

がされていた。たぶん重たくて、それ以上押していけなかった

のだろう。サイドミラーがもぎ取られていたが、バイクを取り

戻すことができて、息を吹き返した。

 そんな事件があって、出発は昼になった。市内を通り抜け、

アラスカハイウエーへ向かった。道はすぐ砂利道になった。車

とすれ違う時、お互いに100キロ以上のスピードだ。石が跳

ね上がり、ビシッと風防に当たって丸い穴があく(おそろしい

)。時には手の指に当たり、顔を歪める。それ以来、車とすれ

違うたびに顔を反対側に向け、一瞬目をつぶってしまう習性が

身についた。

 カナダの風景は、やはり広大だ。広角レンズがなくては、全

然カメラの中に納まらない。えんえんと続く樹林の中を走り進

む。3日目、やっと晴天になった。昨日までは朝と夜が雨で困

ってしまった。テントの長さは180センチ、ボクの身長は1

82センチ。足がテントから出てしまって、寝袋の足のほうは

びしょ濡れだ。

 旅が始まったばかりで、キャンプは道路わきでやっていたが

、食事はレストランに入った。毎日、朝夜ともミルクとハンバ

ーガーだ。でも予定の1日500円じゃ何も食えない。一日3

ドルぐらい使っている感じだ。新聞では、日本が一番物価高で

あるといっていたが、日本ではラーメンやヤキソバが300円

ぐらいで十分に食えたのに、こっちはハンバーガー1個だ。

 4日目、装備のまずさが表面に出てきた。砂利道のため、バ

イクの両サイドのザック袋がすれて穴があく。そしてブーツも

縫い目の糸が切れてガタガタになった。ガムテープで修理する

※1976年8月から1979年12月までの日誌を書いていきます。

記載は、下記のブログに変更します。

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オートバイの旅(60End)Perth-1979/09/17 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(60End)Perth-1979/09/17


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1979/09/17        ソーセージ
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 ブリスベーンから約2000キロを進んで、マウント・アイザに到着。砂漠の中の鉱山の町だ。大きなヤグラの下に町が広がる。
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 ここで一息ついて、砂漠を通って、再びアリススプリングスへ行く準備をする。食料を1週間分購入し、バイクの整備をする。特にバッテリーが不調なので入念に行った。そして、警察へ行き、出発日と到着日を報告してアリススプリングスへ連絡してもらった。到着日予定日を2日過ぎても、私が向こうの警察へ現れない場合は、捜索開始されることになる。
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 何しろ、ここのポリスたちは、これから私が行こうとしているルートに関して、まったく何も知らないのだ。その地域に足を踏み入れた人が一人もいないので、かれらの心配顔を見てしまった。
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 さあ出発だ。とメインスタンドを外したとたんに、ひっくり返てしまった。ガソリン40リットル、それに水、オイルを満載している。ものすごく重い。これで砂地を走れるのだ。いや1メートルと少しずつ前進するのだ。
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 ノーザンテリトリーの州境へ向かう。ウランダンジの牧場までは、普通の凸凹道だったが、強風で苦労した。
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 悪路に入ると、待ち構えていたのは砂地ではなく、砂埃が堆積した大きな溝だった。その埃の下は砂岩がゴロゴロしている。川を渡った要領で進む。もうもうと砂埃が舞い上がる。エアクリーナが詰まってしまう。大型トラックが作った深いワダチなのだ。とてもまともには進めない。タイヤはワダチの中で、両足はワダチのてっぺんを蹴りながら、歩くように進む。
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 州境を超えると、つくられたばかりの砂利道に変わった。残念ながら、予定日数の半分でアリススプリングスに着いてしまった。
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 アリススプリングスの町は2度目だが、まさに砂漠の中のオアシスで安らげる。すぐに警察へ行って到着を知らせ、またアヤーズロックを経由して、パースへ向かうことを伝えた。
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 身体がだるく、筋肉が弱くなったことを感じてきたので、栄養をつけることにする。旅も終わりに近づいたので、少しぐらいは贅沢をしても良いだろう。ミルク、オレンジジュース、チーズ、バター、ソーセージを大量に買い込んだ。誰もいない河原でキャンプする。バターはすぐに溶けてしまうので、手早く20近いサンドイッチを作り上げた。


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1979/09/22          空き缶
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 自分で作ったサンドイッチはうまい。3食分だ。今から食べるのが楽しみだ。アリススプリングスの最後の夜、すごい砂嵐に襲われた。砂が雨のようにテントをたたいた。テントの下から砂が吹き込み、息苦しくなる。そうしているうちにテントの支柱の杭が抜け、テントがつぶれた。仕方がないので、支柱を手で支えながら寝る。
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 翌朝、目が覚めると嵐は納まっていたが、テントの中は砂が積もって真っ白だ。
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 以前に道路で拾って修理したラジオが、天気の急変を告げていた。これから最後のコースが心配だ。雨でも降ったら、たちまち泥道になってひどい目にあうことになる。
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 バッテリーが不調で、液面の低下が激しい。オーバーフローしている。バッテリー本体が悪いのか、ジェネレータがおかしいのか、それともレギュレータが悪いのか。町を離れてからエンジンがかからなくなったら困る。とりあえず、バッテリー補充液だけを入れ、アヤーズロックへ向かう。幹線道路との分岐点まで来ると、雨が降り始めた。たちまち路面に雨水がたまるようになった。道路の表面は雨水をふくむと滑って危険だ。食料も水もあるので、2日間のキャンプをした。破れたズボン、カッパ、ザックの修繕をして過ごす。
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 2日目にやっと道が乾き始めたので出発する。水を少し含んでいて、土のしまりがよくなったので、快適にアヤーズロックに到着。
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 アヤーズロックから先が、どんな道になるか分からないので、警察へ行き、これからラベルトンへ行くので、向こうへ連絡をしてくれと頼んだ。バイクで行けるわけがない。と相手にしてくれない。さらに無線機も持たないで行くのは無茶だと叱られた。
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 それから、2日間滞在して道が乾くのを待った。キャンプ地で、車で旅行している日本の青年2人に会い、久しぶりに日本語を楽しんだ。
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 マウントオルガを過ぎると道が狭くなり、厳しいコルゲーションになった。恐ろしいほどの振動だ。すでにリアクッションはオイル漏れを始めている。あまりの振動でマフラーの固定金具が割れてしまった。
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 ギブソンとグレートビクトリア砂漠の真中を進む。相変わらず赤い砂とブッシュだけの世界だ。アヤーズロックから200キロの地点にある岩洞窟でキャンプする。


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 次の日は、ロックリバーというアボリジニの居住地で、ガソリンと食料の補給をする。さらに洗濯板の道を西へ進む。何もない。ウエストオーストラリア州に入ると意外に道がしっかりしてきた。風車のあるところにはアボリジニの村があった。また砂で苦しむようになった。キャンプしようと道からそれたとたん、バイクが砂の中にもぐってしまった。脱出するのに一苦労した。分岐点でキャンプしていると、夕方になって、車でキャンプしている白人の3人組がやってきた。私の横でキャンプしても良いかと聞いてきた。
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 彼らは簡単に火をおこし、コーヒーをいれてくれた。カラカラに乾いた砂漠の中で飲むコーヒーは、驚くほどうまかった。彼らの2人は教師で、私たちは夜遅くまで話をした。
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 彼らは、私が全く炊事道具を持っていないことを知ると、空き缶に針金を通して、ヤカンを作ってくれた。そしてインスタントコーヒーを1びんプレゼントしてくれた。更に火の起こし方まで教えていった。この乾燥地帯の灌木は乾ききっているので、マッチ1本でOKだ。
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 それ以来、毎晩、火を起こしてコーヒーを飲むのが楽しい習慣になり、おかげでなかなか眠れず、睡眠不足になってしまった。
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 また、バッテリーの状態が悪化した。液面の低下が激しくなった。どうやら放電はしていないようなので、過充電による蒸発かもしれない。レギュレータがいかれてしまったらしい。ヘッドランプをつけて過充電を押さえるようにした。
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 ブラックストン・キャンプからは、大地の色が黒く変わり、砂利になった。
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 ワルバートンミッション、ここはアボリジニの町だ。雨季になると交通が遮断されるので、大きな食料ストックがあった。ここにはガレージがあったので、バッテリーの点検をする。ライトを付けていけば何とかなりそうだ。長い間、洗濯板の道が続いたので、ステアリングがいかれてしまい、嫌な音がする。
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 6日目にラベルトンの町に到着。そのまま予定のコースでパースへ向かう。カルガリーの町まで来ると、またラジオが聞こえ始めた。「州浜」という歌が日本語で流れてきた。もう旅も終わりに近いことを感じた。
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 次の町で突然、エンジンが止まり、ランプが消えた。ヘッドランプとフラッシュランプをつけたまま走ってきたので、逆に完全にバッテリーが空になったのかと思った。しかしヒューズが飛んでいた。
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 今度はエンジンから異常音が発生。クランクシャフトがぐらぐらになってしまったのだ。ジョイントが抜けてしまったらしい。あとひといきだ。最短コースをとって、パースへ向かった。
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 パースに到着後、クランクシャフトとピストンを交換し、バイクを日本へ送り返した。


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・最後に、長い間、読んでいただき、ありがとうございました。
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・これは1980年に、旅の日誌をそのまま書き写したものです。日時、場所の間違いや、そして良くない表現があるかもしれません。お許しください。


・この旅の全写真集は下記のブログにあります。


 http://tamaiyozo1976.blog.so-net.ne.jp/archive/c2305310727-1


 



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オートバイの旅(59)Adelaide-1979/08/03 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(59)Adelaide-1979/08/03

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1979/08/03          赤チン
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 鉄道がアリススプリングスまで開通していない頃は、ロバ、ラクダなどによって物資が運ばれていた。私は、その道を通って南下することにした。まだ、雨季は始まっていないから、そう困難なことはないはずだ。ガソリンを40リットルほど積んだ。凸凹の幹線道路からそれると、すぐに砂にハンドルを取られて転倒。ガソリン、水、オイルが満タンなので、すぐに立て直すことができず、通りかかった車に助けてもらう。
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 花の草原が続き、写真を撮りながら進む。道が悪いからスピードは遅い。ついつい路傍の草花に目がいく、大地を走ることを楽しみながら進んだ。前方に目の覚めるような赤い花を見つけた。初めて見るものだ。異様なぐらいに赤く、人間に瞳のように、真中に黒い目がある。その花に赤チンというあだ名をつけた。
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 オードナダタは、予想していたような村だった。歴史のある場所だが、今はさびれている。住民も白人よりアボリジニの方が多い。一応、警察も病院もあったが、西部劇の舞台になりそうな村だ。食料品と雑貨を売っている一軒の店で、4日分のビーンズの缶とパン、ビスケットを買う。
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 そこから道は悪くなった。石が多く、川越えする箇所も増えた。トラブルを起こした車の残骸が生々しく残っている。
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 また川に出た。水もきれいで浅いと思った。調べもしないで、突っ込んだ。対岸の手前が深そうなので、横へ逃げた。そこで前輪が石の上に乗り上げ、後輪は砂の中にめり込んだ。一人ではとても動かせない。といって後ろを見たところで、誰も来るはずがない。あれこれしているうちに、バイクは水中に倒れ込んだ。バイクを起こす前に、ぶら下げてあった大切な食パンの袋を取り上げた。やっとのことで、バイクを起こしてそこを脱出したが、その川は塩水だった。たちまち手袋、靴から塩を引き始めた。
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 ウイリアムクリークは、一軒のホテルがあるだけだった。ガスの給油はできる。そこでは、久しぶりの旅行者の私を歓迎してくれた。そこの大きな犬とも仲良くなる。そこで初めて、コブが一つだけのラクダを見た。昔は食料や水を運ぶのにラクダを使ていたのだ。
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 そこから250キロ先にマリの町がある。昔はラクダ、ロバの隊商の出発地があったところだ。この地方としても大きな町らしいが、水道がない。地下水は塩とマグネシウムのため飲めない。それぞれの家の横には大きな水槽があり、雨樋と結ばれている。その雨水はとてもうまかった。

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1979/08/23        生の世界
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 アデレードの町では、バイクの整備をし、ヤマハの技術者のヘインズが家に誘ってくれた。家には5歳、6歳の女の子、そして16歳のおとなしい男の子がいた。奥さんは夜勤の仕事をしている。最近買ったという中古の家は、二人でペンキ塗りや壁紙の張替をしたという。立派な家だ。
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 二人の女の子は、すぐ私になついた。こちらの子供たちは、私たち日本人も英語を話すのが普通だと思っているらしく、普通に話しかけてくる。するとヘインズが、私に分かるように、ゆっくり、はっきりと話してあげなさいと注意する。
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 ヘインズは、ドイツからこちらに来て10年ばかりだ。やっと家が持てるようになったので、ワインを飲み始めたという。今まで我慢していたのだ。すぐ近くにバロッサ。バレーというオーストラリアワインの名産地があった。
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 次の日は日曜日だった。私たちはワイン工場へ出かけた。工場に直販コーナーがあり、味見することができる。そんなところを4か所も回れば、ほろ酔い加減になり、顔も赤くなってしまう。
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 メルボルンに到着して、またバイクの整備をした。バイクは16万キロを走っている。修理やパーツの交換をしたらきりがない。クランクシャフトのウエイトの鉛が緩んでしまって、ベアリングに当たっていた。クランクシャフトは非常に高いので交換することはできなかった。

 2日間修理した後、旅の報告をするために新聞社へ行った。そして、帰るときにエンジンがかからない。恥ずかしいけど、新聞社の前でバイクをトラックに積み込んで修理工場へ持って帰った。
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 翌日は土曜日で作業場は休みだったが、特別に作業場を開けてもらい、自分でバイクを調べた。原因はオイルポンプの閉め忘れとオイルタンクの詰まりだった。
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 修理をおえて、山の中を通ってシドニーへ向かう。オーストラリアにこんなにたくさんの樹木があるのが、ウソのようだった。これまで砂漠地帯を2か月も走ってきたので、その樹木のある景観には驚きを感じた。スキー板を積んでいる車をよく見かけるが、それもまた奇妙に感じる。本当に東海岸は恵まれた土地だ。緑がいっぱいだ。
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 シドニーの中心部の摩天楼を川越しに見たときは、砂漠の景観のイメージと重なり合って、理解に苦しんだ。市内に入っていくのが怖いような気分だった。シドニーの町は起伏が激しく、非常に変化にとんだ美しい町並みで、町の中を走るのが楽しい。
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 東海岸に沿ってグレート・ドライブ山脈がある。それを超えると砂漠地帯で、人々はアウトバックと呼んでいる。東海岸に住む人たちにとって、そこは全く別世界なのだ。海側が生の世界なら、山脈の裏側は死の世界。
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 ブリスベーンまで北上して、砂漠の中の困難な道を求めて、マウント・アイザヘ向かう。

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オートバイの旅(58)Alice Springs-1979/07/16 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(58)Alice Springs-1979/07/16

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1979/07/16   これから先は 
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 ダーウィンからアリススプリングスへは、幹線道路を通らず、砂漠の中の道を行くことにした。タナミロードと呼ばれている道だ。そのためにバイクの点検を慎重に行い、リアタイヤ、オイルポンプ、クラッチ板の交換をする。
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 さらにツーリストオフィースヘ行き、タナミロードに関する情報を集めたが、よくわからない。手に入れたパンフレットに少し書いてあったが、大変なところらしい。4輪駆動車を使用することとあった。砂が深いらしい。約450キロは無補給で行かなくてはならない。調べれば調べるほど不安になる。道はあるのだ。トラックのワダチがある限り、進めないことはない。
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 アフリカの砂漠でも1日100キロは進めた。それと同じ準備をする。ラビットフラットまで5日かかるとして、その分の食料と水10リットル、ガソリン約50リットルを用意する。
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 ダーウィンからホールズクリークまでの約1200キロを走り、タナミロードの入り口に到着。そこでまた決心が揺らぐ。怖い。心配だ。サハラ砂漠を走った経験はあるが、バイクは15万キロ以上も走ったオンボロだ。
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 石ころの道が続いた。車のワダチだけの道になった。時どき、ワダチが交差するので、このまま進んでよいのか不安になる。ビリナルの牧場に着いて、道が正しいことを確認した。ワダチに沿って行けば、アリススプリングスに到着するが、牧場主は「これから先はさらに悪くなるよ」と注意した。
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 雨季の時期は大変らしい。あちこちに車が泥につかまり、もがいた跡があった。だんだん砂が深くなった。アボリジニたちが使用していた車が、よく転がっている。途中、車のそばにアボリジニの若者が立っていたが、私はその横を通過して行くしかなかった。彼もまた助けを求めようとはしなかった。

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 車のタイヤの跡も残らないほどの砂になった。さらに、登り坂になってしまった。両足を出して勢いをつけて、1メートルほど進む。それを何度も繰り返して坂を上っていく。そのうち、エンジンはオーバーヒートして力がなくなった。そんなときは私も疲れ切っているので、休憩だ。今までの経験から非常に悪いところは、そう何十キロも続かないことを知っていたから、1メートル刻みで進むことに対して、そう絶望的ではなかった。
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 前方から3台の4輪駆動車がやってきた。砂地のワダチ道だから、すれ違うのも大変だ。できる限りワダチの端にバイクを寄せた。すれ違う時に、男が心配そうにどこまで行くんだと聞いてくれた。アリススプリングスまで行くことを伝えると、男はあきれた顔で「これから先は、もっと砂が深くなるぞ。」といった。
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 その言葉を聞いて少しは不安になったが、まだ、私には余裕があった。本当にダメになったら引き返せば良い。しかし、完全にダメだと思うところまで乗り入れて、バイクを反転させるのは、前進する以上に大変だろう。
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 多少のトラブルはあったが、どうにかウエストオーストラリア州とノーザンテリトリー州の境まで進んだ。そこからは砂利の道路に変わり、簡単にタナミ、ラビットフラットにたどり着いてしまった。意外だった。アリススプリングスまでは、砂と闘いながら進む覚悟だったし、それなりの準備もしてきたのだ。
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 このコースの走行距離は、約1000キロで、2か所でガスの補給ができる。ラビットフラットは牧場で、ガソリンと冷凍食パンなどの食料も売っていた。そこには、双子の男の子がいた。久しぶりに人に会えたのが嬉しいのだろう、そこの主人と話していると、彼も近づいてきた。もちろん、バイクにも興味があった。父親が「さわるな。」と大声で叱りつけた。子供たちは泣きべそをかきながら家に逃げ帰った。こんな砂漠の中でも、父親のしつけは厳しかった。
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 もう一つの補給箇所はユエンドゥムというアボリジニの村だ。ここは白人によって管理運営されているようだった。若者の集会所、学校、スーパーマーケット、警察がある。この居住区に入るには許可書が必要だが、ただ通過するだけなら許可はいらない。
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 村のまわりは、汚れたテントや小さな小屋が集まっている。白人社会の住居とあまりの違いにショックを受ける。

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1979/08/09    花園の中
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 アリススプリングスの町は、砂漠の真中にあった。まさにオアシスの町だ。砂漠を越えてきた者に安らぎを与えるものがある。
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 この町でアマチュア無線家に会う。ヤマハバイクの店に主人で、コールサインはVK8NOC。私もハム仲間の一人でコールサインはJR1XPOだ。毎日、日本の局が聞こえるから、久しぶりに日本語を話してみないと家に呼ばれた。
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 コンディションが悪く、JA3,JA1エリアは取れなかった。そして、交信できたのはJA6(鹿児島)のJA6VOYだった。相手はびっくりしているようだった。オーストラリアと交信している最中に、突然日本語を話す奴が出てきたのだ。もちろん他の局の人たちは、私たちの交信がDX(国際通信)だとは思わなかっただろう。
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 日本の局と交信していると思うと私も興奮してきて、声が上ずった。非常に嬉しかった。最近の日本のニュ―スなどを聞いた。オーストラリアでは冬の最中で、私はズボン下をはいていたが、鹿児島のVOYさんは、非常に暑くて困っているなどといっていた。私たちの日本語のQSOをここのVK8NOCさんは不思議そうに聞いていた。
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 アリススプリングス周辺を1周した後、アヤーズロックへ向かう。削ったばかりの道で、砂の窪地が多く、少し苦労する。幹線道路へ出てからは道幅は広いが、ひどい洗濯板で、これがやッかいだ。
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 砂漠の中に忽然と生えた大きな岩。アヤーズロック。1周約90キロ。高さ335メートル。この巨大なものが一つの岩だと思うと楽しくなる。夕日を浴びて赤く染まっていくときは、台地から噴き出した溶岩のようだ。いかにもこの大陸を象徴する神秘な存在だ。
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 35キロ先のある神の山マウントオルガは、花園の中にあった。白、黄、赤の花が咲き乱れて美しい。こんなにたくさんの花が咲いているのに、ここは砂漠というのだろうか。小鳥も蝶もいる。まるで、別世界だ。非常に気に入って写真を撮りまくった。私は、ちょうどこの地域の雨季が終わり、一斉に草花が咲きだすときに出くわしたようです。
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 帰りには、アヤーズロックの頂上に登ってみるつもりだったが、空腹で我慢ができず、あきらめてキャンプ地へ戻った。毎日一回食べるビーンズのトマト煮とパンがあまりにもうまくて、早く食べたいのだ。
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 次の日、花園の中を通って、アデレードへ出発した。

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オートバイの旅(57)Australia-1979/06/18 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(57)Australia-1979/06/18


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1979/06/18   カンガルーの死体
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 パースに到着。真冬だし雨の多い時期のはずだけど、良い天気で、寒くはなかった。簡単に上陸手続きがすんだ。しかし、バイクの受け取りは大変だった。船会社、港湾事務所、倉庫と回り、やっとバイクを受け取ったものの、検疫所の前庭で泥除けの裏側まで水洗いをさせられた。
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 上陸してしばらくすると、気分が悪くなってきた。建物の床が揺れるのだ。1週間の船旅で、体のリズムが船の揺れに慣れてしまったのだ。体が揺れ続け、こらえきれずに市内の1泊3ドルの安ホテルに飛び込んで、そのままベッドに倒れ込んだ。
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 次の日もフラフラしていたが、オートモービルクラブなどを回り、オーストラリアの車検を受け、ナンバープレートを手に入れた。これがないと交通事故傷害保険に入れないのだ。
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 やがて本来の天候に戻り、雨と寒い日が続くようになった。1週間もパースに滞在して、最後のバイクの整備をした。交換したパーツは、クランクシャフト、ベアリング、フロントタイヤ、チェーン、リアショック、バッテリーなどだ。最後の行程だが、砂漠の真中を行くので、ベストコンディションであることが必要だった。
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 荷物を床にぶちまけ、不要なものを整理した。最後はこのパースの町に戻ってくるので、20キロぐらいの荷物を置いていく。それだけの荷物を減らすと、バイクは驚くほど軽くなった。でも、後で後悔することもあった。
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 パースの町を出ると、すぐに牧草地帯に入り、民家もほとんどない景色になった。パースから100キロも北上すると、車の数もぐっと減ってしまった。ただ、風がやたらに強烈に吹き荒れる。ハイウェイの横に見える木は、海からの風にあおられて、長い年月の間に、幹が曲がってしまい、地面を這うようにして伸びていた。空は時どき雨を降らす雲が横たわっていた。
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 牧草地もなくなり、カノーバーに近づいたころ、雨雲が切れた。大空に一つの線が引かれ、南側には、うろこ雲が漂い、北側半分は青い空が輝いていた。そのあまりの違いに驚き、これから晴天の日が続くだろうと思うと嬉しくなった。
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 地図には200から300キロごとに大きな地名があったので、カノーバ―から一気に次の地点へ向かった。ところが、予定の距離になっても、それらしい町の気配がない。小さな丘を越えると、1軒のガススタンドがあった。そこが地図に上に大きく書かれている地名の場所だった。スタンドは、レストランも兼ねているところが多い。
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 北へ進むほど、そういった感覚のずれを感じた。普通の町と町の間は700キロぐらいは離れているようだ。
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 また、北へ行くほど、ガソリンの値段が上がった。パースではリットル26セントだったが、33セントになった。それに食料品も上がってきた。パスでは食パンが67セントだったが、1ドル近くになった。
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 ポートヘッドランドに近くなると、道路上に牛、カンガルーの死体が散らばるようになった。硬直して、縫いぐるみの人形のように丸々として横たわっている。太い尻尾が印象的だ。顔は歯をむき出し、怖い目つきをしている。
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 どこまでも赤い大地が続く。ブルーメまで来ると、寒さから一変して昼間は暑く感じられるようになった。テントを張り終えた後は、革ズボン、パッチを脱いで日光浴をするようになった。北部の牛の放牧地帯に入ってからはハエに悩まされた。水に飢えているのか、唇や目の周りにたかる。水筒にも群がる。イライラしてハエを殺せば殺した数だけ増えてしまう。叩き潰したハエに他のハエが体液を求めて集まる。また、そのハエの鈍さには驚く。目にたかるハエを追い払おうと、手で顔の前を叩くと、ハエが手の中でつぶれてしまう。


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1979/07/09   無線アンテナ
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 幹線のアスファルト舗装を3000キロも走ると飽きてしまう。それほど変化に乏しい景色だ。天気も良くなったので、デルビからギブリバー牧場を経由して、ウインダハムに至る悪路を行くことにする。
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 60キロほどアスファルト舗装が続いた後は、非舗装の車1台がやっと通れる幅になった。小さな川には橋もなくなり、それも進むに連れて深くなった。膝かしらまで水が来るようになった。そいうところに限って砂が深かったり、玉石がごろごろしている。やっと川底を乗り越えると、今度はパウダー状の砂地で転び、全身真っ白になる。
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 行程にちょうど中間ぐらいにマウンテンバネット牧場があり、ガソリンを売ってくれる。鉄柵を開けて中に入ると、牧場は川の向こう側にあった。両岸は砂地で勾配がきつい、川の中で転倒しないように用心してたどり着いた。中庭にドラム缶が転がっている。手動ポンプで入れてもらうが、量はドラム缶に棒を突っ込んで測る。リットル40セントで非常に高い。
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 牧場といっても「あの山とこっちの山の間が俺の牧場だ」というぐらいの大きさだ。ただ、牛を放してあるだけだから牧場らしくもない。「どこに牛が3000頭もいるんだ」と聞くと、「ブッシュの中だ。」という。そんなにあちこちに散らばっている牛を、どうやって集めるのかと聞くと「昔は馬に乗ってやったものだ。今は車で走りまわり、ヤッホーと叫んだら、集まってくるよ。時にはヘリコプターで追い集めるときもある。」
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 庭に無線アンテナがあったので、アマチュア無線でもしているのかと思ったら、この僻地の唯一の連絡方法で、急患が出た場合、それで連絡すればヘリコプターが飛んでくるという。テレビもラジオも届かないから、無線でニュースを知るのだ。」
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 また、子供の教育も無線でやっている。家の無線機からは、家の子供一人一人を呼び出して、無線授業が始まるところだった。先生が子供の名前を呼びかけ、元気にやっているか、などと話している。
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 明日は大きな川を2つ越えなくてはならない。それに備えて、早めにキャンプした。
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 オーストラリア名物のハエを能率的退治する方法を発見した。ただ頭を上げて目を開け、両手を顔すれすれにパチパチと叩けば、ハエがボロボロと落ちる。一度に3匹ぐらいは落ちてくる。それをアリが拾って運んでいく。
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 次の日、ウインダムの手前のギブリバーのあたりから、ひどい悪路になった。洗濯板状の凸凹が激しく、石がでっぱり、砂も多くなった。40キロも走るとうんざりする。食料は3日分しか持っていない。今夜が最後だ。嫌でも予定通りに進まなくてはならない。ギブリバーから100キロで川に到着した。川幅は広いが、歩いて渡ってみると川底は安定していたので、問題なく渡りきることができた。
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 さらに100キロ進むと最後の川に出合う。川幅は広いが、何でもない川のように見えた。歩いてみると、大きな玉石が転がる不安定な川底だった。水深は膝まである。2回往復して歩いたが、コースが決まらない。安全のために歩いて荷物を対岸へ運んだ。わずか80メートルの距離だが、一度にたくさんの荷物を運んだものだから、川の真中でへたばってしまい、荷物を降ろすこともできずに立ち往生した。2回往復して運び終えたが、苦しい。
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 水深はクランクカースの上まで来る。川の真中まで来ると、マフラーの出口がみずの中に入り、音が変わってきた。回転が下がるとエンジンが止まりそうだ。スロットルグリップを開け、注意深く玉石を1つ1つ越えて行った。


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オートバイの旅(56)Thiland-1979/04/10 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(56)Thiland-1979/04/10

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1979/04/10        精神病院
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 バンコクで簡単なバイクの整備をして、チェンマイへ向かった。北上するにつれ、バナナやヤシの木が少なくなる。昼を過ぎても陽射しがきつい。北へ行くほど高地になるが、気温が上がる。途中、民家の床の下でキャンプさせてもらい、昼寝をする。キャンプといってもテントを張らずに床の下で横になるだけだ。それほど暑くて何もする気がしない。時どき家の人がスイカやマンゴーを出してくれた。青いマンゴーをスライスして砂糖をつけて食べるのはうまい。
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 チェンマイに到着。市の中心部は堀に囲まれていた。地図で見ているときは倉敷市のようなところだろうと思っていたが、それほど情緒のあるところではなかった。それでも2輪車や3輪車がけたたましく走り回っているバンコクよりは良かった。
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 3日ほど食べて寝るだけの生活をし、更に北の町へ向かう。マエホンソンが私が考えていた北限の町だった。さらに山奥へ入るルートもあるが、身の危険を感じるので中止した。マエホンソンは寺もある町だった。この町の民家でキャンプさせてもらう。
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 ちょうど寺の縁日があったので、民家の娘2人と境内の映画を見に行った。境内は若者たちでいっぱいだ。娘たちも英語があまりわからないのに、いろいろと質問してくる。「何歳?」せっかく娘たちの仲間にしてもらったのに、29歳なんて答えたら白けてしまう。19歳とか、20歳とか聞くので、笑ってそうだとうなずいた。
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 次の日も滞在した。娘たちが私の衣類を洗ってくれた。お礼にコーラを買ってあげたら、後で母親がアイスコーヒーをご馳走してくれた。そんなふうに十分な会話ができないのに楽しく1日が過ぎた。
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 出発の朝、朝食に妹が姿を現さない。記念写真を撮ろうとしても出てこない。私がバイクにまたがった時、窓から半べそをかいた彼女が覗いているのが見えた。私のことを好きになってしまったのかな。?ヤマハのTシャツをプレゼントして、チェンマイへ引き返した。
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 中国暦の正月が近づいていた。そこらじゅうで、ガキどもが水の入ったバケツを持って待ち構えている。水をぶっかける祭りが始まったのだ。水を掛けられてはかなわないので、先にバケツを取り上げて、たっぷりかけてやった。
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 チェンマイの町は水浸しだった。なるべく人のいない通りを行き、安宿に逃げ込んだ。外へ出かけた旅行者たちは、上着やズボンから水滴を垂らしながら帰ってきた。悪い奴は氷水をぶっかけたりするが、そんな連中にも、水に花を浮かべている娘もいた。そんな水なら喜んでかけてもらいたい。水祭りは1週間も続いた。
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 3日間、ホテルの中庭でキャンプして、昼間は外へ出なかった。水をかけられるのが嫌だからだ。この水祭りにもルールがあって、暗くなると中止だ。
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 タイの滞在期間も残り少なくなったので、バンコクへ引き返す。寒暖計は40度を示していた。手で触ると逆に青い水銀液が下がるほどだ。
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 民家でキャンプするたびに人々の親切を受けた。朝、出発するときにお弁当として、もち米のおにぎりと茹で卵を持たされることもあった。
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 チェンマイを出発して2日目、民家でキャンプさせてもらう。体がだるいので昼寝がしたかったのだが、近所の人が見物に来るので、相手をしなくてはならない。
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 夕方、テントを張り終えると、家の人が夕食を持ってきてくれた。私が食べるのをみんなが熱心に眺めている。まるで珍しい動物がエサを食べているのを見ているようだ。そこへ少年が英語で書かれた紙を持ってきた。「この辺は危険で、あなたが狙われそうだから、村長の家に行った方がよい。暗くなる前にそうしなさい。」とあった。
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 私も心配になって、村長の家に行く。村長は歓迎してくれた。水を浴びて部屋に戻ると、庭には2階の板の間を仰ぐようにして村人たちが座っている。その板の間には村長をはじめ年輩の人が座り、夕食を並べて待っていた。これから村長と私の談話を拝聴しようという感じだった。
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 みんなが見つめる中で、私は夕食をいただいた。学校の教師をしているという男がいろいろと私に尋ね、その私の返事を庭にいる人たちに伝える仕組みだ。別に面白い話をしたわけではないが、私の伝えるたびに人々は楽しそうに笑う。
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 その通訳をしてくれた男が、英語で話がしたいという女性を紹介してくれた。彼女はわずかな英語で私の名前とか歳をたずねた。村長のいる前だから、素直に29歳だと告げると、彼女は私も同じよと喜んだ。あとで分かったのだが、彼女は19と29を聞き間違えたらしい。彼女が村人にはわからない英語で「好きです」とささやいたときはドギマギした。

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 翌朝、彼女の叔父が日本人だというので、家に行ってみると、中村さんといい、戦争中に半身不随になって日本へ帰れず、そのままタイに残った人だった。ここで家庭を持っているが、言葉と手足が不自由で、生活が苦しいという。タイ人の奥さんは優しそうな人で、日本語を少し知っていた。彼は、私に日本へ帰りたいといった。しかし、難し問題がいろいろとあるようでした。
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 チェンマイであった日本の青年3人は、すでにバンコクに戻っていた。しかし、その中の一人が2日前から行方不明だという。その前日の夜、3人で酒を飲みに行き、どこかで分かれたままだという。冗談じゃない。すぐに警察に届けを出し、日本大使館へ回ってみたところ、警察から通報があったので、これから迎えに行くところだという。代わりに私が警察に行き、釈放書類を作ってもらい、町から40キロ離れた精神病院へ迎えに行った。
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 その青年は私を見て、非常に喜んだ。彼は夜中一人で町を歩いていて、少年グループと喧嘩になったという。非常に酔っていたし、警官とは言葉が通じないし、おまけにパスポートも持っていなかったので、精神病院送りになったのだ。動物園の檻のようなところで、変な男たちに囲まれていた。まさか私が来るとは思わなかったらしい。私は3人組とは、それほど親しくしていなかったのだ。
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 あれほど仲良く見えた3人組の関係もこんなものかもしれない。一人が行方不明になっていたのに、何もしていなかったのだ。一人はすでに飛行機でフィリピンへ行き、もう一人もマレーシアへ行く準備をしていて、明日はその青年をのこしたまま、出発してしまうつもりでいた。(情けない話だ。)
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1979/05/06
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 タイ南部の東海岸を南下する。そのままマレーシアへ入国した。キャンプした海岸の村には軍の監視塔があった。カンボジア(クメール)からの難民の上陸を見張っている。気分のよいところではないが、軍隊の目の前でキャンプすれば、安全だろうと考え、軍の許可をもらって、テントを張った。この村にはトイレがない。海岸の浜が天然水洗トイレだ。とても泳ぐ気分にならない。
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 半島を越えて、西部のマラッカへ向かう。町では、真っ赤な教会が印象的だった。海岸沿いの中国人街は活気があった。町を一周して、そのまま、シンガポールへ行く。
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 マレーシアから、海峡を渡ればシンガポールだ。入国は非常に簡単だった。緑に覆われたハイウェイが市内まで続く。市の中心地には、東南アジアの中心地と言われているだけに高層ビルが立ち並んでいる。
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 シンガポールでは、オーストラリアへ渡る船を待ったり、その準備をするため約3週間滞在することになった。
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1979/06/12        食事時間
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 ソ連の客船に乗って、ジャカルタ経由でパース近郊の港プリメントルへ向かう。このソ連船は正規の料金の半額220ドルだったが、オートバイの割引がなく、1000cc以下のバイクは甲板上で180ドルも取られた。
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 昔、黒海を航海していたというあまり大きくない船は、ジャカルタを離れると大きく揺れはじめ、食事時間になっても食堂は空っぽで、夜のパーティも中止になった。私もくたばった。寝ていると楽で、元気になったと思って食堂へ行くと気分が悪くなり、途中でベッドへ引き返す。バイクがひっくり返っているのではないか思うぐらいに揺れた。
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 1週間の航海の最後のパーティでは、私の趣味はドラム演奏なので、皆の前で叩いた。みんなから喝さいをもらった。女性たちが酒を持ってきてくれたので、最高の気分になった。

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オートバイの旅(55)Malaysia-1979/03/06 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(55)Malaysia-1979/03/06

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1979/03/06   ゲリラの村 

 マレイシアのペナン島に到着。人であふれていたインドと違い、静かで、小ぎれいな町を歩くと安らぎを感じる。
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 マレーシアでの最初の食事はラーメンだ。これは非常にうまかった。インドと比べると、ペナン島は何もかもよかった。気候も快適で、たえずそよ風が吹き、日陰はしのぎやすい。
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 市場には日本の食品がたくさんあった。カッパえびせん、あんぱん、味の素、おこし・・・懐かしい。でも、物価がインドの2.3倍も高いのには閉口した。一番安いユースホステルに3日滞在して、島の裏側にある海岸で泳ぐ。水そのものはあまりきれいではないが、パンツ一枚になって思い切り泳いだ。
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 本土へ渡り、北上してタイへ向かった。ゴムの木のプランテーションが続き、海岸沿いの家々が南国的な高床式の家で、とても素敵だ。1日目のキャンプは、そのゴムの木の中だ。近所の食堂の人が家に来て、寝ろと言ってくれたが、ひとりになりたかったので断り、テントの中で寝た。
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 2日目にタイ国境に到着。役人はマレーシアとは違い、ワイロを欲しがっているような感じの悪さがあった。
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 タイの住居や食事は、マレイシアとほぼ同じだったが、ラーメンの量が少ない。アイスコーヒーの氷が細かく砕いたものだった。タイで最も気に入ったものは、そのアイスコーヒーだった。その後、無人の海岸で泳いだりして、北上した。
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 タイの南部には、反政府ゲリラがおり、民家を襲ったり、バスや車を狙うと聞いていたので、山岳地帯に入るときは怖かった。
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 タイで困るのは、食堂で何かを注文すると、必ず飲み物は?と聞いてくる。ラーメンやチャ―ハンを食べながらコーラやジュースは飲めないので、水を頼むのだが、その水が有料なのだ。あとで分かったが、ほとんどの店が本来は飲み物屋で、その店の中に構えているラーメン屋などは別経営の出店なのだ。つまり、水代は席料に当たるらしい。そんなことは知らないから、最初の頃は、たびたび水のことで喧嘩した。
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 北上するにつれて暑さが厳しくなる。バイクで走っていても風が熱い。頭がボーとして非常に疲れるようになった。
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 幹線道路から離れた海岸でキャンプしようとして、一軒の家を見つけて入ってみると、どうも様子がおかしい。家にいた連中は、不気味で、なんとなく身の危険を感じたので、すぐにそこから逃げ出した。再び幹線に戻り、農家の庭先でキャンプさせてもらった。そこの人たちに先ほどの村のことを話したところ、キャンプしていたら殺されていたかもしれないという。ゲリラの村のようだ。
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 その後もたびたび民家でキャンプさせてもらったが、そのたびに、家の人から外で寝るのは危険だと言われ、家の中で寝かされた。
またある時、倉庫で寝かせてもらったら、外から鍵を掛けてしまった。それほど郊外の人たちは、盗賊やゲリラの襲撃を恐れているようだった。
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 また、寺でキャンプしたときも、住職からテントを張って寝ても構わないが、何かあっても責任は持てないよと脅された。
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 タイの寺はきらびやかで、どこの地方を走っても、あちこちに建っており、タイの風景の大きな要素になっている。そんなお寺でキャンプしたとき、子供が遊びにやってきたので、ビスケットをあげた。すると子供は両手をあわせ、合掌してから食べた。改めてここは仏教の国であることを感じた。

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1979/03/16   水浴び

 ますます気温が上がり、体調が悪くなり、疲労が激しくなった。食堂に入っても、1杯のアイスコーヒーを飲むのも苦しくなった。テーブルの上に倒れ込むようにじっとしているときがあった。
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 どうしてこうもへたばるのかと思った。原因は暑さだけではない。革ジャンパーは安全のためにずっと着ていたが、ここしばらくの間は暑いので、チャックを全部はずして、体に風を直接受けて走っていた。これがよくなかったらしい。それ以降はチャックを上まできちんと挙げてバイクを走らせたところ、疲れが非常に軽くなった。
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 毎日、泳ぎたくて漁村を訪ねながら進んだ。バンコクに近い漁村の一家に大歓迎された。子供がすぐになついてきた。ひと泳ぎすると、子供がヤシの木のてっぺんまで登り、ヤシの実を落としてくれる。私がナタで穴を開けようとするがなかなかうまくいかない。すると、女子がナタを取り上げて、手際よく穴を開けてくれた。メキシコ以来の懐かしい味だ。旨い。果汁の後は、半分に割って、中の白い油脂を食べる。若い実だから、その油脂はトコロテンのようにつるつるしておいしい。そんなふうにして私は1週間も滞在してしまった。
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 夕方、空軍に勤めている若主人と縁日へ出かける。境内に入ると、流行歌が鳴り響き、あらゆる出店が並んでいる。お化け屋敷やヘビと少女の見世物小屋もある。鉄砲でタバコを落とす射的屋もある。飯屋数軒あるだけの村だから、縁日は大きな娯楽であり、人々の接触の場であるようだった。遠くから自転車やバイクでやてくる人も多く、寺の前には大きな預かりところができていた。
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 若主人は、私をまず仏像の前に連れていき、線香とロウソク、さらに金紙を持たせた。その金紙は仏像に張り付けるものだ。
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 出店の中を行く子供や女性は、ベビーパウダーで首も顔も真っ白にしている。大人の女性のこの顔は見られたものでない。お化けだ。私はかき氷を買てもらい、境内の中の映画を見て帰った。
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 毎日、庭で水浴び最低3回はするという。こちらの生活にも慣れると、なかなか良いものだ。みんなよくゴロゴロとよく寝ているけど連中はいつ仕事をするんだろうと、ふと思った。
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 元気になったので、その漁港を離れたが、、100キロ先の漁港でも4日ほど厄介になり、ゴロゴロと過ごした。ここではテレビで<子連れ狼>を見た。橋幸夫のテーマソングがそのまま流れていた。
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1979/03/22

 町へ映画を見に行った。映画館では上映前にタイ国王の写真が映し出され、国歌が流れる。全員起立だ。その後は全員が食ったり飲んだりしながら映画を楽しむ。昔の日本のようだった。
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 タイ映画の会話は全く分からないが、恋愛もので筋は簡単だから、十分に楽しめる。タイの人気女優は、小柳ルミ子のような顔をしていていた。終わって、いつもの食堂へ行く。毎回同じものを注文するので、そこの娘に日本語で焼き飯というとOKだ。今日は特別の日だから、ビールと料理2皿を注文。日本に近くなったことが、こんな贅沢をさせるのだろうか。250円なり。

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オートバイの旅(54)Nepal-1979/01/26 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(54)Nepal-1979/01/26

 

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1979/01/26         キンカン
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 ネパールの首都カトマンズへの道はきびしい。バイクは息もたえだえに登っていく。すでにオーバーヒートしていたが、回転を下げないようにして進む。
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 カトマンズの町は、レンガ造りの狭い道路が入り組んだ町並みで、私が想像していた木造の静かな町の姿ではなかった。滞在したホテルは、日本の青年たちがよく利用するところで、日本語の看板まであった。カトマンズの家は寒さを考えてか、天井がやたらに低く、大男の私は、たえず頭を下げていなくてはならなかった。
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 ネパール第2の町ポカラは、雪を被った山塊が、すぐそばまで接近した素敵なところだった。郊外の農家の庭先でキャンプして一日中、その山を眺めていた。
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 町から離れたところに住む人たちは、医療に困っていた。私がある村でキャンプしたとき、村の子供の傷口に赤チンを塗ってやると、アフリカで薬をあげた時と同じで、大人までが薬をくれとやってきた。子供は身体に赤い液体を塗ってもらうのが嬉しいらしく、何やかやと理屈をつけて塗ってくれという。
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 首の曲がらないお爺さんには、キンカンを塗ってマッサージを教えてやった。目がチクチクするというお婆さんには、目薬を差してやり,絶対に手でこするなと注意を与えた。一番多いのは皮膚病だが、これだけは手が出なかった。子供が頭をつき出して見せるが、感染が怖くて、オロナインを与えて、自分で塗るように指示をした。
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 次の日も患者の群れだ。下痢をしている赤ちゃんには薬を与えず、腹を冷やすなと母親に注意する。腹がパンパンに張って仕方がないという娘に、子供がはいっているのではないかと言うと、娘は顔を赤くして、皆が大笑いした。どうやら妊娠ではないようなので、腹薬をあげた。
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 昨日、薬をあげた老人が嬉しかったのか、貧しい食料の中から温めたミルクを持ってきてくれた。他の人たちもパンやティーを持ってきた。
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 1週間ほどネパールに滞在して、インドへ戻った。外国旅行者の入国には、時間がかかるが別に問題もなく出入りができる。しかし、インドやネパールに住む人たちは、インドの税関役人にひどくいじめられていた。布一枚でさえ没収されていた。没収を免れるのは、ヒンズー教の神様の絵ぐらいだ。

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1979/02/05         日本人
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 ネパールからカルカッタに到着。キャンプできる場所もないので、市内の安ホテルに入る。5人ほど日本の青年たちがいた。その中に5歳ぐらいの男の子がいて、私を見つけると、すぐに飛んできて注意を与えてくれた。「顔が真っ黒だよ。早く洗いなよ。」「ここは泥棒が多いから、荷物は全部、部屋へ持っていった方がよいよ。」とか、私をタバコ屋へ案内するときも「この路地はウンコがいっぱいだから、真中を歩いた方がよいよ。」という。通称ウンコ通りでは毎朝、家のない人が、せっせと生産するのだ。
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 私はこの3年間、十分に日本語を話す機会がなかったので、日本人を見つけては懸命に話をした。しかし、彼らのほとんどは、毎日、日本人と会うような旅行をしているので、私ほど日本語に飢えていなかった。中には日本人と会うのを避けている若者もいた。
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 しかし、私は良い日本人の友人を得た。歳も同じぐらいで話が合った。その青年は映画シナリオの仕事をしており、私も映画がすきだったので、一日中しゃべっていた。私たちの話は映画、インド、人生、宗教、日本・・・と続いた。彼は今回の自分の旅をテーマにした映画を作りたいといっていた。
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 この3日間の滞在中に、これからバイクでアフリカへ行くという青年に会い、バイク旅行のノウハウやマナーについて話し合った。
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 出発の日、私がバイクに荷物を積むのを見て、皆はそのものすごい量にあきれ果てた。ホテルのヨーロッパの青年もあきれて、カメラを取りに戻り、写真を撮られてしまた。
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 私はインドへ来てよかったと思う。いろいろな青年に会い、いろいろなことを考えさせられた。これからの旅、これからの人生を考えた。11時過ぎにホテルを離れ、マドラスへ向かう。
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 どこかで象に会いたいものだと思ったら、小さな茶店の前にインド象が駐車(?)していた。すぐさまバイクを停め写真を撮らさせてもらう。象は人なつこく、長い鼻を伸ばしては何かをくれとねだる。パンを一切れやっても、少ないといってすぐに鼻を伸ばす。このゾウはインド女性と同じように、おでこを赤く塗っていた。既婚女性か。
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 マドラスで10日間滞在して、2月28日客船に乗ってマレイシアのペナン島へ向かった。1週間の船旅だ。車で旅をしているイギリスの若いカップルを親しくなり、退屈はしなかった。

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オートバイの旅(53)India-1978/12/21  [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(53)India-1978/12/21

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1978/12/21   レンガ工場
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 ラホールの南80キロにあるカスールからインドへ入国するつもりで行ってみたが、パキスタンとインドの関係がよくないので、閉鎖されていた。しかし、ラホールに回ると、パキスタンの出国もインドへの入国手続も簡単だった。荷物検査もなかった。しかし、バイクのカルネ(無税通関書類)のコピーを何度も見るものだから、時間がかかってしまった。
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 2時過ぎに国境事務所を離れ、腹が減ったので、インドの食堂に入った。パキスタンと全く同じ店構えだった。値段が高い。ロティ(波状のパン)がパキスタンの半分の大きさなのに高かった。料理は同じようなものだった。
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 インドは、乞食がいっぱいで汚らしいというイメージを持っていたが、パキスタンと同じだ。やはり人間がいる大地だ。
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 レンガ工場でキャンプ。夜、工場の人がインド風の小さなチャパティとおかず2つを、きれいなステンレスの皿に入れて持ってきてくれた。真っ暗で何を食っているのか分からなかったが、いつものトウガラシの利いた料理だ。
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1978/12/22   人で渋滞している
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 デリーへ向かう幹線道路は、朝の通勤でごった返していた。車はすくないが、野菜やいろいろな品を町の市場へ運ぶ馬車、牛車、自転車、それに徒歩の人たちが、めちゃくちゃに町へ向かって歩いている。
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 アルミスタールの町は、ものすごいスモッグだ。朝の太陽も黄色なっている。あまりにもすごくて息苦しい。日本のスモッグなど目じゃない。それが郊外に出ると、朝もやにかすんだ太陽になる。
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 デリーに近づくにつれて、インドに人が多いことを実感する。10キロも走れば、すぐに次の町に着き、町の中は人で渋滞している。どの町も市内に入れば道幅は広くなるのだが、歩行者で身動きが取れなくなる。
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 道路を走っているのは、トラックやバスが主で、乗用車は少ない。市内ではインド製のジャワとシングルエンジンのトライアンフが走っていた。250以上のバイクは金持ちしか買えないようだ。50や70のバイクを作ればよいのにと思う。しかし、人で混雑している町にバイクが増えれば、人が多いから交通事故の多発が目に見えている。信号機の色の意味も知らないようだ。
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 ブタ、牛、犬、ニワトリが道路を歩き、人間は車の音を聞いても、頭に荷物を載せたまま、後ろも見ずに左端から右端へ斜めに横切っていく。

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 道路の舗装はパキスタンよりは良いが、バスやトラックがパキスタンと同じように道路の真中を飛ばしていく。
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 インドで初めてガソリンを補給した。1リットル3.48ルピーだった。US1ドルが8ルピーだから、ほとんどヨーロッパ並みの高さだ。インドの物価を考えると、べらぼうに高い。バイクや車に乗っている連中は本当に金持ちなのだ。
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 2日目、農林試験場でキャンプさせてもらった。一家族と2人の青年が住んでいた。英語があまりできないが親切にしてくれた。
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 滞在日を延ばして、クリスマスをここで過ごすことになった。昼過ぎ、仕事の終わった青年の一人を連れてドライブへ出かけた。大きな家の前にロイヤル・エンフィールド(4ストローク、シングルエンジン)があったので足を止めると、窓から若者がお茶でもどうだ。と声をかけてくれた。初めて、インドのハイクラスの家を覗いた。家族の男たちは2階の屋上で日向ぼっこをしていた。男兄弟が全員一緒に住んでいるようだ。
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 一緒に来ていた青年が中に入ってこないので、無理に呼び入れた。ミルクティはその青年にも出してくれたが、私にタバコを進めても、連れの青年には顔も向けない。これがカースト(身分階級)なのだろうか。言葉も交わさないのだ。
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 すこし分かったことは、この見るからにインド人らしい顔つきをした家の人たちは身分が高くて、そうでない顔つきで、ほとんどひげを生やしていない背の低い人たちは、身分が低いようだ。嫌な思いをする前に、そこを退去した。連れの青年は、そういう差別に慣れているようだったが、彼に嫌な思いをさせてしまった。
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 次の日、インド製のトライアンプの新車に乗せてもらた。初めてなので、エンジンがうまくかからない。チェンジレバーとブレーキレバーが逆についていた。4ストロークエンジンらしく、のろのろと走り出す。シフトに手間取り、エンジンが止まってしまった。キックしてもかからない。このバイクは完全なインド製だが、3.40年前の英国製バイクの味がそのまま残っていて、排気音はあのトライアンプ・サウンドだ。バイク野郎ならば、こういうバイクを乗りこなしたいものだ。
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1978/12/26   聖地ベナレス
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 オールドデリーは、毎日がお祭りのような人込みだ。「人間が生きている世界」というようなものを感じる。車や私のバイクは人の後ろをノロノロと進むが、自転車タクシーは、ガチャガチャと鈴を鳴らして勢いよく走っていく。
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 日本大使館で実家からの手紙を2通受け取った。その中にサハラ砂漠を越えていた時の写真が入っていた。地平線の続く砂漠の中を小さなバイクが砂煙をあげて走っている。
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 12月のインドは、一番寒い時期だ。毎朝、寒さを感じたが、それでも昼になると、どんどん気温が上がってくる。
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 インドの道路は、2車線の幅員がある道路でも、アスファルト舗装が1車線分しかないのだ。だから、対向車があるときはお互いに譲り合えばよいのに、なかなかそうはいかないらしい。接触事故でトラックが畑の中に転がっているのをよく見る。
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 ボンベイへ行き、また、デリーに戻った。気がかりになっていたオーストラリアのビザが発給された。往復の航空券がなかったが、6か月滞在のビザが取得できた。係員はこれは特別だよといった。マドラスからマレーシアへの船の予約も取れた。ロシアの客船だ。
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 カトマンズへ行く途中、ヒンズー教の聖地ベナレスで、ひとりの日本人青年に会った。彼は歌手で、自分のレコードをインダス川に流したという。私はあまりインドには引かれないが、彼は完全にのめり込んでいた。彼はヒンズー教に取りつかれ、精神異常になったらしい。インドからヨーロッパまで放浪し、ドイツで精神異常者として保護されたという。両親がドイツまで迎えに来て、日本の精神病院に入れられたらしいが、今またこうしてインドに舞い戻ってきたという。インドはあらゆるものを受け入れてしまう世界なのでしょう。

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オートバイの旅(52)Pakistan-1978/12/18  [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(52)Pakistan-1978/12/18

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1978/12/18         ミルクティー
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 パキスタンの首都ラワルピンジは、少し小高いところにあった。町はパキスタンとしてはきれいにできていた。計画的に作られたニュータウンだ。
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 そこからラホールヘ行くか、カラコルム山脈のナンガバルバットを見に行くか考えた末、まだ、時間はあるので、マリーへ向かう。町を離れると、すぐに山道だ。車のチェックステーションで道を尋ねたら、また、ミルクティーだ。
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 どんどん山道を登る。もうすでに12時で、ちょっと遅いが、マリーまで行けば、ナンガバルバットが見えるから、すぐ引き返すつもりでいた。山道はだんだん険しくなり、バイクはオーバーヒートしてしまった。
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 ちょっと山道を甘く見すぎたようだが、もう後へ引けない。バイクを時どき休ませたりして進む。マリーの近くになると道は有料になり、1ルピーも取られた。しかし、道は良くならない。気温も下がってきたが、今の時期としては暖かい。
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 どうにかマリーに着いたが、はっきりと雪をかぶった山々は見当たらない。ともかく見える地点まで行くことにして、アボタバッドを目指す。さらに尾根道を登ると、松の木が生え、今までとは違た景観になった。土地の人たちは、その険しい道路にそって家を建て、だんだん畑を作って生活している。
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 その尾根の頂上に着くと、遠くに雪を被った山々が見えたが、どれがナンガバルバットか分からない。遠すぎるのだ。
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 その頂上を過ぎると急勾配の下り坂だ。ブレーキが十分にきかない。3時を過ぎると陽が急に落ちていく。早く、キャンプする場所まで進まなくては・・・。この山の中では寒くてたまらない。
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 アボタバットの近くまで来ると、ポリスのチェックステーションがあったので、キャンプさせてもらいことにした。谷の中の村だから、テントを張れる場所もなかったので、事務所の中で寝かせてもらうことにした。
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 ぞろぞろと村人が集まり始めた。中にはポリスもいるようだが、服装がみんな同じなので区別がつかない。その中の一人が理解に苦しむ質問をした。返事に困った。英語が話せるかと聞く。役人たちは、私の身分が分からないので、どいう態度で接したらよいか迷ているようだった。ここでは、英語が理解できるかどうかが、まず、人間を区別する最初の基準になっているらしい。次は学歴と職業だ。それによって、私の身分を判断して対応を考えるのだ。無職だといったら、バカにされてしまう。医者といっておくのが一番良い。どこでも尊敬される。
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 別の男がやってきた。ポリスのようでもあったが、普通の服だったので、いい加減に話を合わせておいた。彼はそのステーションの裏のポリスの学校の教官らしい。ここでは身分の高い階級で、私に敬意を表明するために登場したようだ。
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 私の方が背が高いし、着ぶくれしていたので、よけい大男に見える。私は英語を話すのが下手でも、慣れてしまっているので、声も大きい。その教官は、他のポリスの前でもあるので、ちょっと格好つけた。私のバイクに足をかけ、もたれるようにして話し始めた。一方私は、その男のメンツを立つようにしてやろうと、彼の職業などを聞いて、大いにびっくりして見せた。
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 彼も気をよくしたらしく、私を学校へ案内して、食堂でご馳走してくれた。その後で宿舎を案内してくれたが、各ベッドに二人の男が仲良く並んで座り、楽しそうに雑談していた。手をつないでいる人もいる。気味の悪い気分です。ここではボーイフレンドのいない男はいないかもしれない。その教官は、ある男の腰に手を回して、俺のボーイフレンドだと自慢げに紹介した。

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1978/12/19        元軍人
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 アボタの町でミルクティーを飲む。ミニバスから降りてくる少年たちが、雪の塊を持っている。この町では雨だが、ちょっと上がれば、雪になっているらしい。
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 そのカフェで16歳ぐらいに少年が、いきなり「名前は?。どこから来た?。」どうして見ず知らずの人間に、突然名前を聞くのだ。ガキから「ホッチャネーム?」なんていわれて頭にくる。その感じは「お前、なんちゅう名だ。」で、そんなガキに返事をしてやる気持ちはない。それに答えてやっても、それ以上の言葉を知らないのが普通だ。
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 ラホールへ向かう。十分な幅員がある道路だが、両端が非常に凸凹しているので、バスがおおきな顔をして真中を突っ走て来る。対向車などはまるで無視だ。相手が避けるものだと思っている。ところどころにトラックが引くりかえっているが、バスの姿はない。
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 ラホールまで150キロ地点で、事務所のような建物を見つけ、キャンプさせてもらう。この地域の人たちは少し違っていた。ガキどもは相変わらず好奇心が強くてうるさいが、大人はあまり集まってこない。たぶん幹線道路だから、外人旅行者に慣れているのだろう。10人ぐらいの人がいたが、ひとりの青年を除いて、遠くからこちらを見ているだけだ。身分が違うのかもしれない。
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 その建物の守衛をしている元軍人だったふたりの男に世話になった。彼らが夕食を灯油のキャンプ用ストーブで作り、灯油ランプの下でご馳走になっているとき、彼らが話してくれた。5年ほど前にバングラデシュから来たが、あちらでは1週間も飯が食えなかったという。彼らは、こうして毎日飯が食えることに非常に喜びを感じると言っていた。その大切な食べ物を、もっと食べろと進めてくれる。
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 「食べる」「食べられる」ということを本気で考えさせられた。日本では、食べるだけの金なら、仕事すればすぐに手に入る。しかし、彼らは、ほとんど仕事もないし、食べ物もない時期を過ごしてきたひとたちだ。

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