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オートバイの旅(56)Thiland-1979/04/10 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(56)Thiland-1979/04/10

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1979/04/10        精神病院
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 バンコクで簡単なバイクの整備をして、チェンマイへ向かった。北上するにつれ、バナナやヤシの木が少なくなる。昼を過ぎても陽射しがきつい。北へ行くほど高地になるが、気温が上がる。途中、民家の床の下でキャンプさせてもらい、昼寝をする。キャンプといってもテントを張らずに床の下で横になるだけだ。それほど暑くて何もする気がしない。時どき家の人がスイカやマンゴーを出してくれた。青いマンゴーをスライスして砂糖をつけて食べるのはうまい。
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 チェンマイに到着。市の中心部は堀に囲まれていた。地図で見ているときは倉敷市のようなところだろうと思っていたが、それほど情緒のあるところではなかった。それでも2輪車や3輪車がけたたましく走り回っているバンコクよりは良かった。
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 3日ほど食べて寝るだけの生活をし、更に北の町へ向かう。マエホンソンが私が考えていた北限の町だった。さらに山奥へ入るルートもあるが、身の危険を感じるので中止した。マエホンソンは寺もある町だった。この町の民家でキャンプさせてもらう。
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 ちょうど寺の縁日があったので、民家の娘2人と境内の映画を見に行った。境内は若者たちでいっぱいだ。娘たちも英語があまりわからないのに、いろいろと質問してくる。「何歳?」せっかく娘たちの仲間にしてもらったのに、29歳なんて答えたら白けてしまう。19歳とか、20歳とか聞くので、笑ってそうだとうなずいた。
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 次の日も滞在した。娘たちが私の衣類を洗ってくれた。お礼にコーラを買ってあげたら、後で母親がアイスコーヒーをご馳走してくれた。そんなふうに十分な会話ができないのに楽しく1日が過ぎた。
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 出発の朝、朝食に妹が姿を現さない。記念写真を撮ろうとしても出てこない。私がバイクにまたがった時、窓から半べそをかいた彼女が覗いているのが見えた。私のことを好きになってしまったのかな。?ヤマハのTシャツをプレゼントして、チェンマイへ引き返した。
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 中国暦の正月が近づいていた。そこらじゅうで、ガキどもが水の入ったバケツを持って待ち構えている。水をぶっかける祭りが始まったのだ。水を掛けられてはかなわないので、先にバケツを取り上げて、たっぷりかけてやった。
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 チェンマイの町は水浸しだった。なるべく人のいない通りを行き、安宿に逃げ込んだ。外へ出かけた旅行者たちは、上着やズボンから水滴を垂らしながら帰ってきた。悪い奴は氷水をぶっかけたりするが、そんな連中にも、水に花を浮かべている娘もいた。そんな水なら喜んでかけてもらいたい。水祭りは1週間も続いた。
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 3日間、ホテルの中庭でキャンプして、昼間は外へ出なかった。水をかけられるのが嫌だからだ。この水祭りにもルールがあって、暗くなると中止だ。
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 タイの滞在期間も残り少なくなったので、バンコクへ引き返す。寒暖計は40度を示していた。手で触ると逆に青い水銀液が下がるほどだ。
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 民家でキャンプするたびに人々の親切を受けた。朝、出発するときにお弁当として、もち米のおにぎりと茹で卵を持たされることもあった。
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 チェンマイを出発して2日目、民家でキャンプさせてもらう。体がだるいので昼寝がしたかったのだが、近所の人が見物に来るので、相手をしなくてはならない。
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 夕方、テントを張り終えると、家の人が夕食を持ってきてくれた。私が食べるのをみんなが熱心に眺めている。まるで珍しい動物がエサを食べているのを見ているようだ。そこへ少年が英語で書かれた紙を持ってきた。「この辺は危険で、あなたが狙われそうだから、村長の家に行った方がよい。暗くなる前にそうしなさい。」とあった。
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 私も心配になって、村長の家に行く。村長は歓迎してくれた。水を浴びて部屋に戻ると、庭には2階の板の間を仰ぐようにして村人たちが座っている。その板の間には村長をはじめ年輩の人が座り、夕食を並べて待っていた。これから村長と私の談話を拝聴しようという感じだった。
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 みんなが見つめる中で、私は夕食をいただいた。学校の教師をしているという男がいろいろと私に尋ね、その私の返事を庭にいる人たちに伝える仕組みだ。別に面白い話をしたわけではないが、私の伝えるたびに人々は楽しそうに笑う。
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 その通訳をしてくれた男が、英語で話がしたいという女性を紹介してくれた。彼女はわずかな英語で私の名前とか歳をたずねた。村長のいる前だから、素直に29歳だと告げると、彼女は私も同じよと喜んだ。あとで分かったのだが、彼女は19と29を聞き間違えたらしい。彼女が村人にはわからない英語で「好きです」とささやいたときはドギマギした。

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 翌朝、彼女の叔父が日本人だというので、家に行ってみると、中村さんといい、戦争中に半身不随になって日本へ帰れず、そのままタイに残った人だった。ここで家庭を持っているが、言葉と手足が不自由で、生活が苦しいという。タイ人の奥さんは優しそうな人で、日本語を少し知っていた。彼は、私に日本へ帰りたいといった。しかし、難し問題がいろいろとあるようでした。
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 チェンマイであった日本の青年3人は、すでにバンコクに戻っていた。しかし、その中の一人が2日前から行方不明だという。その前日の夜、3人で酒を飲みに行き、どこかで分かれたままだという。冗談じゃない。すぐに警察に届けを出し、日本大使館へ回ってみたところ、警察から通報があったので、これから迎えに行くところだという。代わりに私が警察に行き、釈放書類を作ってもらい、町から40キロ離れた精神病院へ迎えに行った。
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 その青年は私を見て、非常に喜んだ。彼は夜中一人で町を歩いていて、少年グループと喧嘩になったという。非常に酔っていたし、警官とは言葉が通じないし、おまけにパスポートも持っていなかったので、精神病院送りになったのだ。動物園の檻のようなところで、変な男たちに囲まれていた。まさか私が来るとは思わなかったらしい。私は3人組とは、それほど親しくしていなかったのだ。
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 あれほど仲良く見えた3人組の関係もこんなものかもしれない。一人が行方不明になっていたのに、何もしていなかったのだ。一人はすでに飛行機でフィリピンへ行き、もう一人もマレーシアへ行く準備をしていて、明日はその青年をのこしたまま、出発してしまうつもりでいた。(情けない話だ。)
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1979/05/06
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 タイ南部の東海岸を南下する。そのままマレーシアへ入国した。キャンプした海岸の村には軍の監視塔があった。カンボジア(クメール)からの難民の上陸を見張っている。気分のよいところではないが、軍隊の目の前でキャンプすれば、安全だろうと考え、軍の許可をもらって、テントを張った。この村にはトイレがない。海岸の浜が天然水洗トイレだ。とても泳ぐ気分にならない。
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 半島を越えて、西部のマラッカへ向かう。町では、真っ赤な教会が印象的だった。海岸沿いの中国人街は活気があった。町を一周して、そのまま、シンガポールへ行く。
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 マレーシアから、海峡を渡ればシンガポールだ。入国は非常に簡単だった。緑に覆われたハイウェイが市内まで続く。市の中心地には、東南アジアの中心地と言われているだけに高層ビルが立ち並んでいる。
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 シンガポールでは、オーストラリアへ渡る船を待ったり、その準備をするため約3週間滞在することになった。
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1979/06/12        食事時間
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 ソ連の客船に乗って、ジャカルタ経由でパース近郊の港プリメントルへ向かう。このソ連船は正規の料金の半額220ドルだったが、オートバイの割引がなく、1000cc以下のバイクは甲板上で180ドルも取られた。
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 昔、黒海を航海していたというあまり大きくない船は、ジャカルタを離れると大きく揺れはじめ、食事時間になっても食堂は空っぽで、夜のパーティも中止になった。私もくたばった。寝ていると楽で、元気になったと思って食堂へ行くと気分が悪くなり、途中でベッドへ引き返す。バイクがひっくり返っているのではないか思うぐらいに揺れた。
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 1週間の航海の最後のパーティでは、私の趣味はドラム演奏なので、皆の前で叩いた。みんなから喝さいをもらった。女性たちが酒を持ってきてくれたので、最高の気分になった。

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