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オートバイの旅(55)Malaysia-1979/03/06 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(55)Malaysia-1979/03/06

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1979/03/06   ゲリラの村 

 マレイシアのペナン島に到着。人であふれていたインドと違い、静かで、小ぎれいな町を歩くと安らぎを感じる。
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 マレーシアでの最初の食事はラーメンだ。これは非常にうまかった。インドと比べると、ペナン島は何もかもよかった。気候も快適で、たえずそよ風が吹き、日陰はしのぎやすい。
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 市場には日本の食品がたくさんあった。カッパえびせん、あんぱん、味の素、おこし・・・懐かしい。でも、物価がインドの2.3倍も高いのには閉口した。一番安いユースホステルに3日滞在して、島の裏側にある海岸で泳ぐ。水そのものはあまりきれいではないが、パンツ一枚になって思い切り泳いだ。
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 本土へ渡り、北上してタイへ向かった。ゴムの木のプランテーションが続き、海岸沿いの家々が南国的な高床式の家で、とても素敵だ。1日目のキャンプは、そのゴムの木の中だ。近所の食堂の人が家に来て、寝ろと言ってくれたが、ひとりになりたかったので断り、テントの中で寝た。
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 2日目にタイ国境に到着。役人はマレーシアとは違い、ワイロを欲しがっているような感じの悪さがあった。
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 タイの住居や食事は、マレイシアとほぼ同じだったが、ラーメンの量が少ない。アイスコーヒーの氷が細かく砕いたものだった。タイで最も気に入ったものは、そのアイスコーヒーだった。その後、無人の海岸で泳いだりして、北上した。
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 タイの南部には、反政府ゲリラがおり、民家を襲ったり、バスや車を狙うと聞いていたので、山岳地帯に入るときは怖かった。
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 タイで困るのは、食堂で何かを注文すると、必ず飲み物は?と聞いてくる。ラーメンやチャ―ハンを食べながらコーラやジュースは飲めないので、水を頼むのだが、その水が有料なのだ。あとで分かったが、ほとんどの店が本来は飲み物屋で、その店の中に構えているラーメン屋などは別経営の出店なのだ。つまり、水代は席料に当たるらしい。そんなことは知らないから、最初の頃は、たびたび水のことで喧嘩した。
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 北上するにつれて暑さが厳しくなる。バイクで走っていても風が熱い。頭がボーとして非常に疲れるようになった。
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 幹線道路から離れた海岸でキャンプしようとして、一軒の家を見つけて入ってみると、どうも様子がおかしい。家にいた連中は、不気味で、なんとなく身の危険を感じたので、すぐにそこから逃げ出した。再び幹線に戻り、農家の庭先でキャンプさせてもらった。そこの人たちに先ほどの村のことを話したところ、キャンプしていたら殺されていたかもしれないという。ゲリラの村のようだ。
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 その後もたびたび民家でキャンプさせてもらったが、そのたびに、家の人から外で寝るのは危険だと言われ、家の中で寝かされた。
またある時、倉庫で寝かせてもらったら、外から鍵を掛けてしまった。それほど郊外の人たちは、盗賊やゲリラの襲撃を恐れているようだった。
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 また、寺でキャンプしたときも、住職からテントを張って寝ても構わないが、何かあっても責任は持てないよと脅された。
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 タイの寺はきらびやかで、どこの地方を走っても、あちこちに建っており、タイの風景の大きな要素になっている。そんなお寺でキャンプしたとき、子供が遊びにやってきたので、ビスケットをあげた。すると子供は両手をあわせ、合掌してから食べた。改めてここは仏教の国であることを感じた。

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1979/03/16   水浴び

 ますます気温が上がり、体調が悪くなり、疲労が激しくなった。食堂に入っても、1杯のアイスコーヒーを飲むのも苦しくなった。テーブルの上に倒れ込むようにじっとしているときがあった。
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 どうしてこうもへたばるのかと思った。原因は暑さだけではない。革ジャンパーは安全のためにずっと着ていたが、ここしばらくの間は暑いので、チャックを全部はずして、体に風を直接受けて走っていた。これがよくなかったらしい。それ以降はチャックを上まできちんと挙げてバイクを走らせたところ、疲れが非常に軽くなった。
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 毎日、泳ぎたくて漁村を訪ねながら進んだ。バンコクに近い漁村の一家に大歓迎された。子供がすぐになついてきた。ひと泳ぎすると、子供がヤシの木のてっぺんまで登り、ヤシの実を落としてくれる。私がナタで穴を開けようとするがなかなかうまくいかない。すると、女子がナタを取り上げて、手際よく穴を開けてくれた。メキシコ以来の懐かしい味だ。旨い。果汁の後は、半分に割って、中の白い油脂を食べる。若い実だから、その油脂はトコロテンのようにつるつるしておいしい。そんなふうにして私は1週間も滞在してしまった。
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 夕方、空軍に勤めている若主人と縁日へ出かける。境内に入ると、流行歌が鳴り響き、あらゆる出店が並んでいる。お化け屋敷やヘビと少女の見世物小屋もある。鉄砲でタバコを落とす射的屋もある。飯屋数軒あるだけの村だから、縁日は大きな娯楽であり、人々の接触の場であるようだった。遠くから自転車やバイクでやてくる人も多く、寺の前には大きな預かりところができていた。
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 若主人は、私をまず仏像の前に連れていき、線香とロウソク、さらに金紙を持たせた。その金紙は仏像に張り付けるものだ。
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 出店の中を行く子供や女性は、ベビーパウダーで首も顔も真っ白にしている。大人の女性のこの顔は見られたものでない。お化けだ。私はかき氷を買てもらい、境内の中の映画を見て帰った。
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 毎日、庭で水浴び最低3回はするという。こちらの生活にも慣れると、なかなか良いものだ。みんなよくゴロゴロとよく寝ているけど連中はいつ仕事をするんだろうと、ふと思った。
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 元気になったので、その漁港を離れたが、、100キロ先の漁港でも4日ほど厄介になり、ゴロゴロと過ごした。ここではテレビで<子連れ狼>を見た。橋幸夫のテーマソングがそのまま流れていた。
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1979/03/22

 町へ映画を見に行った。映画館では上映前にタイ国王の写真が映し出され、国歌が流れる。全員起立だ。その後は全員が食ったり飲んだりしながら映画を楽しむ。昔の日本のようだった。
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 タイ映画の会話は全く分からないが、恋愛もので筋は簡単だから、十分に楽しめる。タイの人気女優は、小柳ルミ子のような顔をしていていた。終わって、いつもの食堂へ行く。毎回同じものを注文するので、そこの娘に日本語で焼き飯というとOKだ。今日は特別の日だから、ビールと料理2皿を注文。日本に近くなったことが、こんな贅沢をさせるのだろうか。250円なり。

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