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オートバイの旅(52)Pakistan-1978/12/18  [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(52)Pakistan-1978/12/18

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1978/12/18         ミルクティー
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 パキスタンの首都ラワルピンジは、少し小高いところにあった。町はパキスタンとしてはきれいにできていた。計画的に作られたニュータウンだ。
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 そこからラホールヘ行くか、カラコルム山脈のナンガバルバットを見に行くか考えた末、まだ、時間はあるので、マリーへ向かう。町を離れると、すぐに山道だ。車のチェックステーションで道を尋ねたら、また、ミルクティーだ。
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 どんどん山道を登る。もうすでに12時で、ちょっと遅いが、マリーまで行けば、ナンガバルバットが見えるから、すぐ引き返すつもりでいた。山道はだんだん険しくなり、バイクはオーバーヒートしてしまった。
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 ちょっと山道を甘く見すぎたようだが、もう後へ引けない。バイクを時どき休ませたりして進む。マリーの近くになると道は有料になり、1ルピーも取られた。しかし、道は良くならない。気温も下がってきたが、今の時期としては暖かい。
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 どうにかマリーに着いたが、はっきりと雪をかぶった山々は見当たらない。ともかく見える地点まで行くことにして、アボタバッドを目指す。さらに尾根道を登ると、松の木が生え、今までとは違た景観になった。土地の人たちは、その険しい道路にそって家を建て、だんだん畑を作って生活している。
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 その尾根の頂上に着くと、遠くに雪を被った山々が見えたが、どれがナンガバルバットか分からない。遠すぎるのだ。
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 その頂上を過ぎると急勾配の下り坂だ。ブレーキが十分にきかない。3時を過ぎると陽が急に落ちていく。早く、キャンプする場所まで進まなくては・・・。この山の中では寒くてたまらない。
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 アボタバットの近くまで来ると、ポリスのチェックステーションがあったので、キャンプさせてもらいことにした。谷の中の村だから、テントを張れる場所もなかったので、事務所の中で寝かせてもらうことにした。
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 ぞろぞろと村人が集まり始めた。中にはポリスもいるようだが、服装がみんな同じなので区別がつかない。その中の一人が理解に苦しむ質問をした。返事に困った。英語が話せるかと聞く。役人たちは、私の身分が分からないので、どいう態度で接したらよいか迷ているようだった。ここでは、英語が理解できるかどうかが、まず、人間を区別する最初の基準になっているらしい。次は学歴と職業だ。それによって、私の身分を判断して対応を考えるのだ。無職だといったら、バカにされてしまう。医者といっておくのが一番良い。どこでも尊敬される。
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 別の男がやってきた。ポリスのようでもあったが、普通の服だったので、いい加減に話を合わせておいた。彼はそのステーションの裏のポリスの学校の教官らしい。ここでは身分の高い階級で、私に敬意を表明するために登場したようだ。
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 私の方が背が高いし、着ぶくれしていたので、よけい大男に見える。私は英語を話すのが下手でも、慣れてしまっているので、声も大きい。その教官は、他のポリスの前でもあるので、ちょっと格好つけた。私のバイクに足をかけ、もたれるようにして話し始めた。一方私は、その男のメンツを立つようにしてやろうと、彼の職業などを聞いて、大いにびっくりして見せた。
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 彼も気をよくしたらしく、私を学校へ案内して、食堂でご馳走してくれた。その後で宿舎を案内してくれたが、各ベッドに二人の男が仲良く並んで座り、楽しそうに雑談していた。手をつないでいる人もいる。気味の悪い気分です。ここではボーイフレンドのいない男はいないかもしれない。その教官は、ある男の腰に手を回して、俺のボーイフレンドだと自慢げに紹介した。

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1978/12/19        元軍人
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 アボタの町でミルクティーを飲む。ミニバスから降りてくる少年たちが、雪の塊を持っている。この町では雨だが、ちょっと上がれば、雪になっているらしい。
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 そのカフェで16歳ぐらいに少年が、いきなり「名前は?。どこから来た?。」どうして見ず知らずの人間に、突然名前を聞くのだ。ガキから「ホッチャネーム?」なんていわれて頭にくる。その感じは「お前、なんちゅう名だ。」で、そんなガキに返事をしてやる気持ちはない。それに答えてやっても、それ以上の言葉を知らないのが普通だ。
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 ラホールへ向かう。十分な幅員がある道路だが、両端が非常に凸凹しているので、バスがおおきな顔をして真中を突っ走て来る。対向車などはまるで無視だ。相手が避けるものだと思っている。ところどころにトラックが引くりかえっているが、バスの姿はない。
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 ラホールまで150キロ地点で、事務所のような建物を見つけ、キャンプさせてもらう。この地域の人たちは少し違っていた。ガキどもは相変わらず好奇心が強くてうるさいが、大人はあまり集まってこない。たぶん幹線道路だから、外人旅行者に慣れているのだろう。10人ぐらいの人がいたが、ひとりの青年を除いて、遠くからこちらを見ているだけだ。身分が違うのかもしれない。
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 その建物の守衛をしている元軍人だったふたりの男に世話になった。彼らが夕食を灯油のキャンプ用ストーブで作り、灯油ランプの下でご馳走になっているとき、彼らが話してくれた。5年ほど前にバングラデシュから来たが、あちらでは1週間も飯が食えなかったという。彼らは、こうして毎日飯が食えることに非常に喜びを感じると言っていた。その大切な食べ物を、もっと食べろと進めてくれる。
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 「食べる」「食べられる」ということを本気で考えさせられた。日本では、食べるだけの金なら、仕事すればすぐに手に入る。しかし、彼らは、ほとんど仕事もないし、食べ物もない時期を過ごしてきたひとたちだ。

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