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オートバイの旅(38)Cameroon-1977/11/03 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(38)Cameroon-1977/11/03

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1977/11/03   十字架
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 カメルーン北部の山岳地帯に入る。道路は2車線のアスファルト舗装になった。久しぶりにエンジンは5000回転を超えた。石がゴロゴロした山が左右に見える。ジャングルや草原ばかり見てきた私には、この山岳地帯が非常に美しく見えた。川筋にある落葉樹は葉を黄色に変え、散り始めていた。雨季の終わった川は涸れて、砂ばかりの川底を見せている。大きな川もほんの少しの水を残しているだけだ。間もなく本当の乾季が近づいているのを感じる。
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 ナイジェリアの国境に沿って連なる山岳地帯をモコロへ向かう。山道が続き、急傾斜の所もある。大きな石がゴロゴロしたところに風変わりな民家があった。草屋根だけど、その先が鋭くとがっている。そのとがった穂先は、いろいろな方向に向いていて何かを意味しているようだ。
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 この部落は非常に閉鎖的だった。だいぶ離れた家の写真を撮っていても、女が血相を変えて石を握って走ってくる。
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 ルムスキの奇岩の前で一服して、気分は最高だったが、パンクしてしまった。荷物を全部おろして、パンク修理。一番嫌な時だ。
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 ガウンドレの町の教会でキャンプさせてもらったとき、山奥の村で活動している神父に会い、2週間ぐらい、山奥で過ごしてみないかと誘われた。
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 バイクと荷物を町の教会に預け、小型トラックで山奥へ向かう。場所はナイジェリア国境に近いファロ自然公園のそばだ。ティクネレまでは普通の土道だが、その後は恐ろしいような道になる。雨季にはとても走れそうにない。大きな川には橋があったが、小さな川は川底まで降りて、反対の川岸を這い上がる。勾配は急だ。バイクではとても行けそうにない道だ。最後の川底でトラックは動けなくなった。
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 夜11時、中継基地の教会に到着。しかし、そこは神父の教会ではなく、明日、別のトラックに乗り換えて、更に奥地へ入るのだ。
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 神父はドイツ人で、名をコスモスという。私がつけたあだ名はゴルゴ13である。よく似ているのだ。コスモス神父は夕食のとき、君はこれから2週間アフリカ料理だけで過ごさなくてはならないと脅かした。しかし、夕食に出されたものは、目玉焼き、何かのフライ、サラミソーセージ、パンでほっとした。
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 翌朝、乗り込んだ車は4輪駆動車で、タイヤは農耕トラックター用だ。沼地でも川でもどこでも走れそうな車だ。その4000ccの戦車のような車は、トラックより乗り心地が悪かった。しばらく行くと大きなファロ川にぶつかった。まだ、雨季が終わったばかりで水量が多い。コスモス神父は慎重に岸から車を川に中に落とした。川底に大きな石があり、車は横滑りしながら進む。対岸は急斜面の砂地で、神父はその手前で車を停め、デフをロックして、一気に登った。私は楽しくて仕方がない。しかし、危険なので、このときだけは話しかけなかった。
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 もうこれは道ではなかった。でも、このルートも川に水がなくなると、ナイジェリアから密輸品を積んだ小型トラックが通るという。
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 自然公園に近いから動物も多い。神父があそこを見ろ、と動物の名をあげるが相手は素早い、私には見つけることができなかった。一度だけ、ヒヒが農家から飛び出してくるのを見た。ものすごい面相の奴だった。
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 神父の教会のある村で、私は2週間過ごすことになった。別に仕事はない。2日もすると退屈になってきたので、自分の部屋や便所の掃除をする。小学校へも遊びに行った。まだ、退屈なので、教会の看板を作ったり、教会の庭を造るために、手製の測量機器を作って測量をしたりした。
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 針金でペンダントを作っていると、神父から教会に置く十字架を作ってくれと頼まれた。この時ばかりは私も考えた。何しろ私はキリスト教も何も知らない。いくら山奥の教会だといっても、そこに安置される十字架となると、ペンダントを作るような訳にはいかない。2日ほど十字架というものを考えた。そして考えた挙句に、十字架から安らぎを感じられるもの、仏像のような表情のある十字架を作ることにした。
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 材料が問題だ。権力の象徴のようになってはいけない。キリストの身体を表すものだから、いっさい定規は使わなかった。釘も使わなかった。半分ほどできあがたところで、神父からどうしてそんなに左右の長さが違うのかと聞かれた。測ってみたら5センチ以上も違う。そこで制作理念を説明したら、彼も納得してくれた。
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 しかし、この仕事はなかなか進まず、ビザの期限が終わりに近づいていたので、それを残したまま、ナイジェリアへ向かうことになった。ビザを取り直して、すぐ戻ってくるつもりであったが、ナイジェリアではカメルーンのビザは取得できなかった。十字架を完成させることができなかった。(まだ、あの作業場の棚の上にあるのだろうか・・・・・)

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オートバイの旅(37)Chad-1977/10/28 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(37)Chad-1977/10/28

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1977/10/28   カナダ人のおばさん
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 チャド国境の町には、ガソリンスタンドが4軒あったが、ガソリンはなかった。青空市場にはビール瓶にガソリンを詰めて売っていた。10本買ったところ、1リットル150フランと高かった。そこで揚げパンとピーナツ、串焼き肉を買う。
  この国に入ってからは、牛馬が多く見られるようになった。コースを間違え、遠回りしていることに気が付き、進む気をなくして、教会でキャンプさせてもらう。この一帯はカトリック布教のため、多くのフランス人が住んでいる。その教会には7人の神父がいて、日本へも2度も行ったという人もいた。彼らの夕食の席に誘われ、そこでとんでもないことを聞いた。
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 この南部から首都ジャメナヘ行く道は通行不可能だという。チャド国内には、2本の幹線があるが、どれも通行止めらしい。雨季は終わっているのだが、その地帯は湿地帯なので、今年いっぱい無理のようだった。南部からジャメナヘは、カメルーンを経由していくのがよいらしく、輸送トラックはすべてそのコースを利用していた。
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 2泊して、今後のコースを考える。東アフリカへ行くことを中止したために、時間が余ってしまったのだ。つまりこのままサハラを超えてしまうとヨーロッパは冬の真っ最中で、とても旅行などできない。春ごろにヨーロッパに着く必要があった。予定変更してあちこちうろうろしなければならない。
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 カメルーンへ向かう道は今までと違て幅広く、少し退屈するぐらいだった。景色も変わった。樹木が非常に少なくなり、草が多くなった。民家の造りも変わった。屋根に使う草の種類が変わったらしい。屋根の勾配がきつくなり、草の厚さが非常に薄くなっている。そして、中央アフリカに比べると、屋根そのものが高くなったかわりに、土間の面積が小さくなった。そして民家の位置は道路から離れ、数が多い。
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 中央アフリカのような大きな集落はなくなり、家はあちこちに点在している。各農家は円形の庭を持ち、そこに大きな徳利型の食料倉庫が置いてある。これは家と同じように土壁でできている。
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 カメルーン国境の町で教会に滞在したとき、神父がライ病患者の村へ行こうと誘てくれた。それは町のはずれにあって、病棟らしきものはなかった。たった一人で治療に当たっているカナダ人のおばさんが嬉しそうに家から飛び出してきた。長い間英語を使っていないから言葉が出ないというが、私にわかるように大きな声で話してくれた。もう45歳ぐらいだろうか。・・・
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 彼女の家の横に小さな治療室があり、その前の広場を取り囲むようにしてレンガ造りの家がいくつもあった。それぞれにライ病患者の一家が住んでいる。それぞれの家の裏には畑があり、自給自足の生活をしている。だから普通の村と少しも変わらなかった。どこにライ病の人がいるのかと思うぐらいだ。私はてっきり部屋に閉じ込められていると思っていたのだが、実はそうではなかった。
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 神父は、一人一人に握手をして歩いた。みんな手で触れてくれるのが非常に嬉しいようだった。
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 カナダ人のおばさんは、「あなたのように大きな旅はできないけど、私はここで働けるのが楽しいのよ」という言葉を聞いて、胸がジーンとなった。

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オートバイの旅(36)Central africa-1977/09/29 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(36)Central africa-1977/09/29

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1977/09/29   バンギへ引き返す
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 首都バンギまで200キロの地点に来ると道は2車線になった。あまり疲れずに走れるが、休憩の回数を多くして疲れないように進む。雨の時は、やはり非常な悪路になるらしく、泥に埋まったトラックが放置されている。雨が終わった後は、泥が乾き、逆にタイヤを締め付けて動けないようだ。

 1時頃、ボセンベレに到着。明日の朝、バンギに入るため、この日は4時ごろまで進むことにした。3時ごろ、バンギまで70キロの地点でバイクが急にフラフラする。パンクだ。この旅に出て、2回目のパンクだ。すぐ近くに民家があったので、庭先でパンク修理をする。大きな錆びた釘が刺さっていた。

 その作業中、車イスに乗った青年がやってきた。パンクを直してくれという。2本のチューブをつなぎ合わせた代物で、パッチを何枚張っても直らないと思ったが、その足の不自由な青年を納得させるには、とにかく張ってみるしかなかった。ところが、それが直ったのである。青年は非常に喜んで、3キロ先の村へ帰っていった。
 
 次の日も市内の手前でパンクした。首都バンギでは、アメリカの海外青年協力隊のアパートに泊まって、これから先の旅の準備をした。アメリカの青年たちは、中央アフリカに井戸を普及させる仕事の準備中だった。

 3日ほど滞在して、中央アフリカの東部の町バンガスへ向かう。そこからザイールへ入国するつもりだ。まさかガソリンが地方にはまたくないとは予想していなかったが、いちおう予備ガソリンンを20リットル積んでいったので700キロ先までは無給油で達した。途中、綿花集積場で8リットルほど分けてもらい、バンガスの町の着いた。しかし、町には一滴のガソリンもなかった。

 首都バンガスへ帰るにも40リットルのガソリンを手に入れる必要があるし、また、川に向こう側のザイールへ入国するにしても、以前からガソリンが不足していることを聞いているので、とても川を渡る気にはなれない。ただ、待つしかない。

 3日間が過ぎた。銀行もないし、残りの金も少ないので、市場で揚げ物などを買って食いつないだ。昼間は日陰を求めて、広場周辺をうろうろした。本がないので旅行ガイドブックを全部読んだ。ガソリンを保存していそうな綿花集積場や教会を訪ねたり、バンギへ引き返すトラックを探したが、まったくだめだ。

 ポリスが、バンギへ引き返すトラックを見つけてくれて交渉してくれた。運転手はバイクを積んで行くのを嫌がたが、ポリスに弱みがあるのか、しぶしぶOKした。

 800キロの道のりをトラックは1週間以上もかかってバンギに到着した。連日の雨で道がぬかるんでいたからだ。バンギでチャドのビザの取得やバイクの整備をする。ガソリンは20リットルの予備では不足なので、5リットルの缶を2つ買った。チャドのビザは、トランジットと入国ビザしかなく、4500フランを請求されたときは、信じられなかった。(約9万円)

 バッテリーが異常になっていたが、ボルテージレギュレータの交換で直った。バンギのアメリカ青年たちのアパートで1週間滞在しているうちに雨季が終わった。
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1977/10/26   ブルタコ250
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 快晴だ。ガソリン43リットルを積んでチャドへ向かう。晴れると、今度は砂の路面が白く反射して、道路の穴がよく見えない。穴に落ちてたびたび転倒した。リムは凸凹に歪んでしまった。

 昼頃、前方からやってくるバイクを見つけた。ドイツからサハラ砂漠を超えてきた青年だった。同じバイク旅行者仲間として、この出会いは本当に嬉しかった。これからケニヤまで行くらしいので、この国のガソリン事情を教えたが、教会で分けてくれるだろうと、まったく心配していない。彼のバイクはブルタコ250だ。彼はサハラを超えて男になったという感じであった。

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オートバイの旅(35)Cameroon-1977/09/09 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(35)Cameroon-1977/09/09

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1977/09/09         マラリア
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 泥まみれになって到着したドゥアラでは、フランス人家庭に招かれ、4日間休養させてもらった。毎晩パーティーのような贅沢な食事で「フランス料理」そのものだった。昼はだらだらと過ごして、夜になるとワインとビール攻めで、悪路の疲れもすっかり取れた。
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 ヤマハで簡単な整備をした後、シェル石油から60リットルの援助を受け、中央アフリカへ出発した。
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 出発して間もなく、頭痛がしたが、酒の飲みすぎだろうと思って前進した。しかし、それがひどくなり、雨が降り始めたので教会の裏でキャンプした。神父がやってきて、すぐに家に来いと言われて、そのまま1週間厄介になった。頭痛は収まらず、そのうえ神父がくれた薬の飲みすぎで、全身に赤い発疹が出た。病院へ連れていかれたところ、ドクターが3人集まり、天然痘ではないかと脅かされた。その疑いが晴れてからも頭痛が続き、更に1週間寝込んでしまった。(今、思うとマラリアのようです。神父はマラリアの特効薬キニーネをくれました。)
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 毎日降り続く雨で、ヤウンデまでの道は非常に悪くなっているようだった。出発の時、神父はトラックに積んでいけという。別に泥道を恐れはしないが、ディスクパッドの消耗が激しい。スペアパッドも残り1組になっていた。十分すぎるぐらいにもってきたと思ったのに足りない。
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 泥道はさらに中央アフリカ、ザイール、ウガンダに入るまで続くのだ。アフリカではパーツは手に入らない。また、今から日本へ注文しても郵便事情を考えると間に合わない。いろいろ考えたが、やはりやれるところまで独力で前進することにした。
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 ヤウンデまでの道は、人がいうほど悪くはなかったが、1度転倒して、風防、ウインカー、サイドミラーを破損した。
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 首都ヤウンデから先は、しだいにジャングル地帯から離れていき、樹木も少なくなった。バナナの木もなくなった。サバンナ地帯に変わってきたようだった。(雨も降らなくなったが、雨季は終わったのだろうか。いや早すぎる。)
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 路面が乾いてきたので、思ったより早く中央アフリカ国境まで近づくことができた。

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1977/09/27   小川
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 同じカメルーンでも南部のジャングル地帯と北部のサバンナ地帯では、かなり文化が違う。食べ物も住居も違ってきた。もうバナナはなくなり、その代わりオレンジの樹木がいっぱいだ。
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 中央アフリカの国境事務所からは道が極端に悪くなった。途中、ゲートがあって、そこの男がフランス語で何か言った。話の感じから、この先で何かがあって、通行禁止になっているらしい。しかし、言葉がさっぱり分からないような素振りをしたら、行って良いとゲートを開けてくれた。道はさらに悪くなり、深い溝が縦に切れている。その先の橋は、半分壊れて工事中だった。通してもらう。
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 道は、ますますひどくなり、雨でも降っていたら、とても通行できなかっただろう。いたるところで、道は深くえぐれていた。そういうところは坂の途中に多く、エンジンを止めたら、もう発進はできない。必死になって、エンジンを回した。
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 国境からしばらく行くと出入国事務所があり、パスポートに入国スタンプを押してもらう。そこから先の橋はほとんど落ちていた。一時的な木の橋があったりするが、車の車輪の幅に大きな丸太が2本渡してあるだけだ。これだけは私も怖くて、村の子供にバイクの後ろを支えてもらって小川を越えた。雨が降る前にできるだけ距離を稼いでおきたくて、疲れても走り続けた。
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 夕方、小さな部落の広場にテントを張る。村人は椅子を出してくれた。そしてバナナを持ってきた。暗くなるまで椅子に腰かけていたら、テントの前に人が、無言で鍋を差し出した。鍋の中は、小麦粉を練ったものと肉が一切れ入っていた。主人は私を客として迎え、最初に食べるようにと勧めてくれたのだ。私が食べた後、主人が食べ、続いて子供が食べ、そして奥さんが食べた。
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1977/09/28   ガソリンを手に入れた
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 5時半に起床。すでに明るい。手の痒みが取れないので、抗生物質の薬とビタミン剤を飲む。
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 出発して1時間半後に小さな村に到着。この村は巨岩の間にあり、草を調和して非常にきれいなところだった。飛行場もある村なのに、ガソリンは品切れだった。残りの予備ガソリンで230キロ先の町まで行けるかどうかわからないが、この小さな村で、いつ来るかわからないガソリンを待っているよりは良いだろうと、とにかく出発した。市場でパン、バナナ、トマト、それからフランス人が経営する雑貨店でオイルサーディンとジュースを買って、首都バンギへ向かう。
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 道は少し広くなり、路面の状態も少しは良くなった。しかし、雨水に流されて堆積した砂が多くて苦労する。バオロに到着。そこから先は、雨が激しかったようで、路面がぬれていた。
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 大きな水たまりがあった。いつもと同じ調子で真中を通る。一番深いところが、もっとも底が安定しているのだ。しかし、この時は水底に大きな岩のようなものがあり、乗り上げてしまった。スピードが遅かったのでバランスを失て、背中から水中に投げ飛ばされてしまった。こんなところを人に見つかったらみっともないと思い、あわててバイクを起こしにかかる。疲れていたので力が入らない。少し引き上げては、力尽きて、また水の中に落ちてしまう。ガソリンが水面に流れ出した。死にもの狂いで、バイクを起こす。
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 一難去ってまた一難、更に大きな水たまりがあった。10メートル以上もある。あまり深そうには見えなかったのだが、ステップが沈むくらいあった。ギアが高かったので、エンジンが止まってしまった。慌ててエンジンを掛けなおし、一気にふかして抜け出した。
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 その日も村でキャンプした。バイクの整備をする元気がなくて寝てしまう。そして次の日、74キロ先の村でガソリンを手に入れた。(アフリカの旅では、予備タンク20リットルでも不足だと思った。)

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オートバイの旅(34)Nigeria-1977/08/27 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(34)Nigeria-1977/08/27

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1977/08/27   橋と曲がり角
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 トーゴからベニンへ向かう。ベニンの国境事務所は異様な雰囲気だった。2日間滞在のビザを取っていたが、軍人の入国審査官は、パスポートを見ただけで「だめだ。引き返せ。」というのだ。国境には軍人があふれ、住民はおどおどしながら入出国手続きをしている。もちろん、私はそう簡単にはあきらめない。そこの親分らしき男に面会を求め、ちゃんとガーナでビザを取得してきたのだと説明して、やっとのことで、ノンストップでナイジェリアへ向かうことを条件に24時間以内の滞在が許された。
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 トーゴの青年がいった言葉が思い出された。ベニン、ナイジェリアの奴らは気が狂っている。私はその言葉の意味が少しずつ分かってきた。軍人支配の国家で軍がのさばっている。・・恐ろしい空気を感じた。その後、町に入るたびに軍人につかまった。別に面倒なことにはならなかったが、まったく大変な国だ。強制されなくても、今日中にこの国から抜け出そうと思った。
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 町の中を通りたくなかったが、道路が町の中に入るたびに道が分からなくなり、うろうろしているうちに、軍人やポリスに捕まってしまうのだ。
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 その日のうちにナイジェリアに到着してほっとした。銀行はすでに終わっていたので、商店で両替してもらった。正式レートの2倍だ。
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 ナイジェリアへ入国手続きを終えたときは、すでに暗くなっていて、キャンプできそうな場所を探せないので、警察署の中庭でキャンプさせてもらう。
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 首都ラゴスでは、ビザの取得と簡単なバイクの整備をした。アフリカでは、私が使っているヤマハRD250のパーツを手に入れることは不可能だ。しかし、ナイジェリアは、金まわりの良い国で、中型バイクが走っている。ヤマハRD200、ホンダCD175が多くみられる。自動車やバイクが非常に普及していて、道路の舗装も良いようだ。しかし、十分なガソリンがないのだ。そのうえ交通ルールはないのと同じで、市内でも郊外でも事故車がそこらじゅうに転がっている。
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 日本大使館のある市の中心地からホテルに帰る間だけで5件以上の事故を目撃した。交差点でのバイクの炎上、持ち主らしい男が必死に砂をかけていた。そして次の交差点ではトレーラー車とバスが側面接触、バスは前輪がもぎ取られて前へつんのめっていた。お次は自動車専用道路でのことで、バスとトラックの接触、乗用車の炎上。ガソリンタンカーと小型トラックの追突、もうめちゃくちゃだ。渋滞して前へ進めないので、バイクは歩道の上を走ったり、植え込みの中に入ったりしている。
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 事故車をそのまま放置してあるため、車がつかえてしまうのだ。それを避けようとした車が後ろも見ずに大きくハンドルを切るので、接触、追突、炎上・・・もう日本以上に救いようのない交通地獄だ。バスなどは後ろを見るにもサイドミラーがないので、ボディーは傷だらけ。
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 ポリスと軍人のバイクが交差点で衝突。お互いに「バイクを起こせ。」と叫び、大喧嘩が始まった。そんな男たちが交差点に立って、交通誘導をしているのだ。だから交差点の混乱は更にひどくなる。停まった方がよいのか進んでよいのかどうもわからない。私たちがそのまま停車して、誘導を待っていると、車のボディを鞭のようなもので叩いて、なぜ早くいかないのだと怒鳴りつけるのだ。
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 3日後にこの町から逃げ出したが、郊外へ行っても、事故の数は減らなかった。とくに、橋と曲がり角には、事故車がごろごろ放置されている。
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 カメルーンの国境の手前の町アバカリキでは、病院の庭でキャンプさせてもらった。暗くなるまで日記などを書いて夕食のパンを食べていると、「パンしかないの?」と声を掛けられた。彼女は病院の責任者でバイクをもっと安全な場所へ移動させ、これを食べなさいと魚の缶詰と缶切りを持ってきた。とても親切な人で、夜になってからもテントまで紅茶を運んでくれた。

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1977/09/05   国境でキャンプ
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 イコムから90キロほど道を間違えた。もう一度イコムへ引き返し、カメルーンへの道をたどる。とてもひどい道で、これが本当にカメルーンへの道かと不安になった。村人に会うたびに道を確かめて進んだ。一度、転んだだけでカメルーン国境に到着する。
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 大きな川が国境で、釣り橋が架かっていた。出入国手続は簡単に終わる。3時を過ぎていたので、次の町までは無理だろうと考え、国境でキャンプ。飯屋で客の一人にビールをおごってもらう。そして、彼からこの先の道が非常に悪いことを知らされた。
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1977/09/06   まだ30キロ
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 7時半出発。マンフェまで75キロ、いくら道が悪くても午前中には着くだろうと思った。ところが出発してすぐ、とんでもない箇所にぶつかった。登り坂の路面が2メートも落ち込んでいる。しかも、すごいぬかるみだ。バイクを絶対停めてはいけないぞと、自分に言い聞かせて突っ込む。しかし、やはり登り切れずに、斜面の途中で止まってしまった。ずるずると後退し始める。最後には全く動けなくなった。とても一人では登れそうにない。雨は降り続いていた。疲れて休んでいると、エンジンの音が聞こえ、丘の上からバイクがやってきた。近くの住民らしい。その若者は、エンジンを止めて降りてきてくれた。二人でバイクの荷物を全部おろし、斜面の泥を削て再度アタックする。一度エンジンは止まってしまったが、なんとか押し上げた。二人とも泥まみれになってしまった。
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 次は、その若者のバイクをおろす番だ。いくら悪い道でも下り坂は楽だった。そこから先も登り坂のたびに苦労することになった。小型トラックの運ちゃんや小型バスの乗客たちに助けられたり、助けたりしながら前進した。小雨が降り続いていたので、休む所もない。全身がだるく、もう疲労の極限まできていた。1時を過ぎたが、まだ30キロしか進んでいなかった。
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 村があるたびに、コーラを見つけて飲んだ。喉からは苦い胃液が上がってきて苦しい。泥のためにブレーキはきかない。靴の中は泥でいっぱいだ。
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 マンフェの1キロ手前で村の学校を見つけた。キャンプすることにした。村といっても家は10軒ぐらいしかない。その一軒で魚の缶詰と小さなビスケットを買う。捨てようと思っていた古いパンを残しておいてよかった。村人に聞くと、この先にまだ上り坂のぬかるみがあるという。今日はもう、これだけで結構だ。約7時間でわずか60キロしか進んでいない。村の青年によると、私の行動は非常に速いという。バスなどは3.4日はかかるそうだ。子供たちに手伝ってもらって、大きな水たまりの中でバイクを洗う。恐ろしいほど、泥が吐き出された。
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 その後、雨は毎日降り続いたが、マンフェの町からは道も平坦になり、なんとかドゥアラに着くことができた。

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オートバイの旅(33)Ghana-1977/08/10 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(33)Ghana-1977/08/10

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1977/08/10   奴隷海岸
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 ガーナの国境に到着。ガーナの通貨の価値が低いため、その周辺には両替屋がうろうろしている。彼らはドルより西アフリカフランを欲しがった。税関の職員までが、しつこく両替を迫る。
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 国境から首都アクラへ向かって南下する。今まで通過してきたアフリカ諸国の中では、もっとも豊かな印象だ。道路端では、あの土壁と草屋根の家はあまり見かけない。ほとんどが切妻屋根の木造建築だ。土壁の家でも作りが高級だ。土地はよく開拓されていて、家の周りはトウモロコシが植えられていた。(おかげで私はテントを張る場所を見つけるのに苦労した。)
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 ガーナには町ごとに、ちゃんとしたガススタンドがあったが、肝心のガソリンがない。どこでも配給トラックを待って、長い列ができていた。手に入るときは、私の予備の20リットルタンクも満タンにすることにした。
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 マンボングを過ぎたあたりから熱帯雨林地帯になった。今までになかった大木が現れた。その下には熱帯植物が生い茂ている。野生のバナナもいたるところにある。つまりジャングルだ。建物の形まで変わった。イギリス植民地時代の建物である。古風な西洋木造建築がジャングルの中に暑苦しそうにたたずんでいる。
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 アクラに到着して、これから行く国々のビザ取得のために1週間つぶした。
 アクラの町はごった返していた。海の匂いが立ち込めていた。植民地時代をしのばせるものはほとんどない。海岸に出ると、ヤシの木が並び、潮風をいっぱいはらんでいる。海岸では女たちが小魚をドラム缶で煮ている。
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 バイクに群がる子供たちの写真を撮ろうとしたら、一人の男が私のカメラをつかんで、非常に興奮して叫ぶのだ。そして、子供たちに石を投げて追い散らした。私もカットなって相手になっていると、別の男性が飛んできて「あいつは狂人なんだ。許してやってくれ。写真も気にせずに撮ってくれ。」となだめた。(奴隷海岸と言われた歴史があっただけに、海岸での行動は気を付けた方がよいらしい。)
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 1週間で、ケニヤ、タンザニアまでのビザをほぼ取得したが、ザイールのビザだけは取れなかった。ここの大使館ではガーナの住民だけにビザを発給する。だから、日本国籍の私は、日本で取得しろという。それを聞いて困っているとき、偶然、大使に出会って、私の旅に興味を持ってもらった。そして、特別にビザの発給を受けることができた。1か月滞在可能なビザをもらった。係員は「キミは本当にラッキーな男だ」と祝福してくれた。
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1977/08/24   ディスコや映画
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 ガーナのアクラからトーゴへの国境の町ファラオへ向かう。途中で道が分からなくなり、ポリスに尋ねたところ、詳しく教えてくれた。そして、200キロ走って出入国事務所に着いてみると、係員は私が来ることを知っていた。私の出国がうまくいくようにと、ポリスが心配して電話をしてくれたらしい。係員たちは非常に好意的で出国は簡単に終わった。トーゴへの入国もスムースに完了した。
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 首都ロメの町の海岸でキャンプする。そこでフランス人の青年と仲良くなり、その日から毎日ディスコや映画や食事に連れていかれた。彼の両親のきれいな家の庭でキャンプした。しかし、ほとんど毎日のように電気、水道がストップして、トイレの便器は黄金の山積みとなった。近代的な家もアフリカではどうしょうもないようだ。

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オートバイの旅(32)Mali-1977/07/26 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(32)Mali-1977/07/26

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1977/07/26         ヨーロッパの青年4人
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 セネガルに滞在中にマリ、オートボルタ、ガーナ各国のビザを取り終え、セネガル奥地への旅に出た。さいわい曇り空で、さほど暑くはなかった。途中雨にあったが、気持ちがよいのでそのまま走る。川に沿って進んだ。面白い樹形で知られるバオバブの大木を初めて見た。
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 この雨の中の走行中に、バイクでサハラ砂漠を越えるというヨーロッパの青年4人に会う。BMW750とスペイン製のバイク3台のグループだ。それに4輪駆動の救援車が付いていたが、バイクに積まれた荷物は私以上に多かった。それも凸凹道を考えた積み方ではなかった。おそらく全員ひっくり返って痛い目に会うだろう。
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1977/07/28
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 タンバクンダに着く。そこで、あるホテルの中に中庭に例のヨーロッパの青年たちがいるのを見つけた。彼らのバイクはどれもこれもひどく壊れてれていた。案の条、出発そうそう全員が転倒し、バイクの破損などで気がいらいらし、グループは解散したという。
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 セネガルとマリの国境には川が流れ、橋がない。そこで汽車に乗せていくことになった。(警察で、別のルートについて聞いてみた。それは、自然公園の中を行く道で、野獣がいるからバイクでは危険だということであった。)
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 マリのバマコでバイクが3000フラン、人間が3700フランだった。バイクを貨車の所へ持っていくと、車を貨車に固定している作業員たちがいて、固定するのに使用する針金代500フラン、作業料2000フランをよこせという。高すぎると思ったので1500フランにさせた。
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 汽車は2日遅れで出発。貨車の上には車が2台にオートバイが4台積まれた。私たちは乗車券を買わされたのに、2日間、貨車の上で過ごすことになった。
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 昼間は柵も何もない貨車の上だから、非常に迫力があり、楽しかったが、夜になるとバイクとバイクの間に身を横たえて、落ちないようにして寝るのだから大変だ。
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1977/07/30
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 夜、バマコに到着したとき、ものすごいスコールに襲われて、びしょぬれになってしまった。
 バマコでは、マリ共和国への通関手続きをしたのだが、その事務所の係員が何もわからず、3日間もそのために市内を走り回ることになった。
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 バイクは、もう7万キロも走っているので、サハラ砂漠を無事に越えられるか心配だ。一週間も整備を怠けるとバイクの調子が半分になってしまう。エンジンのケーブル軸取出しのオイルシールがいかれたらしく、オイルが上がってくる。また、エンジンのスタートキックのシールもおかしい。それに、たびたび道路の穴に落ちるので、リムが歪んでしまっている。

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1977/08/06           髪の毛
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 オートボルタに入る。町の中はイスラミックの塔がそびえ、正方形の土壁の家が続く。オートボルタに入ってからは、雨の日が続き、滑りやすい路面をノロノロと進んだ。
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 ワガドゥグの手前の村でキャンプしたとき、村人とは全く言葉が通じないが、手伝ってもって後輪のディスクパッドを交換した。泥道のため、パッドの消耗が激しい。作業が終わるやいなや上空の黒雲から雨が落ちだした。雷も一緒だ。
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 テントの中は蒸し暑い。私は裸になって横になった。村の子供たちは雨が降っているのに私のテントから離れずに遊んでいる。
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 夜中、雷の音で目が覚めた。ものすごい音だ。強い風と共に激しい雨がやて来た。テントは横風を受けて吹っ飛びそうだ。寝袋がえらく濡れていると思ったら、テントの中は水浸しだ。何もかもびしょ濡れ。あわてて革ズボンとジャケットだけ荷物の上に移す。今更、ジタバタしても仕方がないので、水につかったまま、寝ようとしたとたん、地盤が緩んだために、バイクがテントの方へ倒れた。外へ出たくないが、そのままにしておくとガソリンが流れ出しってしまう。裸の上から雨合羽を被って飛び出す。テントのまわりは水だらけ。大きな水たまりの中にテントが浮かんでいた。運悪く、地盤の一番低いところにテントを張ってしまったらしい。
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 バイクを起こすと、今度はテントの片方の支柱が倒れた。こんなときに限って金づちが見つからない。テントの中に逃げ込んだ時はびしょ濡れ状態だ。
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 6時過ぎ、明るくなったところ、雨も小降り、雷も遠ざかった。このままじっとしていられないので、走って乾かすことにした。準備をしているとき、予想もしなかった雷がすぐ横に落ちて、頭の全部の髪の毛が一瞬総立ちになった。
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1977/08/09   泥道の走行 
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 ワガドゥグに到着。ナイジェリアなどのビザ取得手続をして、郊外の村でキャンプ。村では子供たちが総出で私の行動を見守っている。どこにでもついてくる。だから畑の中に入って排泄作業もできない。村人にトイレを使わせと欲しいといっても言葉が通じない。小便、大便をするまねをしても通じない。
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 ロバの糞を指さしたら、わかったらしく川岸へ連れて行った。そこには数頭のロバが草を食っていた。青年がロバに綱を掛けて私に渡そうとする。もう、違うんだよ。私がロバの糞を指さして自分の尻をポンポン叩いたものだから、私がロバにでも乗りたいのだと勘違いしたらしい。万策つきて、ガキどもをこっちへ来るなと追い払って、畑の中へ突進した。
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 泥道の走行は、ディスクブレーキパッドを極端に痛めた。そのため2日おきの交換だ。この日も村人に手伝ってもらって交換する。
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 夜、村人から夕食に誘われた。その土地の家には電気などない。主人がハンドライトで私の手元を照らしてくれる。出されたものは、小麦粉を水でこねたようなものと納豆のようにぬるぬるしたもので、私は食べられなかった。主人は私のためにビールまで買ってきてくれた。
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 お返しに数個のパンを差し出すと、父親はその場で、子供たち全員に小さなパンをさらに小さくちぎって分け与えた。楽しく過ごしてテントに戻ると、子供の一人がテントの見張りをしていた。父親がそうするように命じたらしい。嬉しかった。

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オートバイの旅(31)Senegal-1977/07/21 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(31)Senegal-1977/07/21

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1977/07/21   信号機もあった
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 3つ目の大陸アフリカに期待と不安を抱いて、飛行機に乗る。ひと眠りして、ブラジル時間の午後3時、機内のライトがついて起こされた。アフリカの西端のセネガルのダカールに到着だ。飛行場はどこも同じなのだが、殺風景なものだ。すごい暑さ。現地時間の午前6時だというのに、汗ばんできた。検疫を終えて入国検査を受ける。こちらの役人は他の国のように怖い顔をしておらず、楽しそうに仕事をしていた。
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 セネガルからの出国用の航空券を持っていなかたので、私は入国検査に備えて、わざわざヘルメットだけを機内荷物として持ってきていた。これを見せて、次の国へ行くのだと言えば、まず問題なく、入国スタンプを押してくれるだろうと考えた。すぐ、OKとなった。

 大部分の荷物とバイクは別送品として、同じん飛行機で着くことになっていたが、同じ便には積まれていなかった。
 この国の公用語はフランス語だが、係員は英語もできた。もちろんみんな肌の黒い人たちだ。
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 日本を出発する前、アフリカのことを本で読んで、ある程度は知っているつもりでいた。しかし、実際にアフリカ大陸に立ったとき、黒人、ジャングル、動物、砂漠などが頭に浮かび、アフリカの旅に不安を覚えた。
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 飛行場の外へ出てみる。外のん風景はさびしい限りだ。乾ききった樹木が少しあるだけ、草などは全くない。砂ばかりだ。黒い青年たちがこちらを見ると怖かった。
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 初めての土地なので、市内までタクシーで行こうと思ったが、料金が1000CFフランと聞いてびっくり、バスで行くことにした。
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 ダカール市内まで50CFフラン。バスは時おり幹線からそれたりして町を順順に寄っていく。飛行場を出るときはがら空きだったが、いつの間にか満員になってしまった。どちらを見ても黒い顔だ。ズボンをはいているいる人より民族衣装の人の方が多い。途中の郊外の風景は道路のアスファル舗装を除いては砂ばかりだった。その中に民家がぽつんぽつんと建っている。本当に大変なところへ来てしまったと思った。
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 市内に入ってバスを降りると、風もなくなり、更に暑くなった。

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 以内には、ヨーロッパ製の車がたくさん走っていた。きれいなガススタンドもあった。道路にはセンターラインがあり、交差点にはちゃんと信号機もあった。そんな当たり前のことが驚きとして感じられた。
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 この町の店の経営者はほとんどが白人だった。アフリカ大陸であっても、アフリカの町ではないのかもしれない。(白人の町のようだ。)
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 日本大使館があり、私宛の手紙や小荷物を受け取りに行った。二人の日本青年の旅行者にあった。彼らは、すでに1年以上もアフリカの旅をしているので、私のようにおどおどしていない。もう何に対しても興味はないし、何かを求める気持ちもないと言っていた。
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 昼過ぎに彼らに案内されて、安そうな飯屋に入る。ネズミが這いずり回っているような汚い店だ。わずか100フランで皿一杯に盛られたチキンライスが食べられた。ひと切れの鶏肉と漬物がついていた。冷たい水もついていた。旨かった。私の皿には飯粒がたくさん残っていたが、彼らの皿には飯粒一つ残らず、肉は完全に剥がされ白い骨が転がっているだけだった。今までの自分の旅の甘さを感じた。
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 飛行場へ行ってみた。係員は、バイクは届いているといった。私は嬉しくて、そわそわしながら、その男の後に付いて行った。着いたばかりのようで、大きな木箱が倉庫の入り口のそばに放置されていた。木箱は高さ幅とも1メートル、長さは2メートルもある大きなものだ。税関事務所の人たちは、バイクの無税通関のための書類(カルネ)を知らなくて、一時は輸入税を支払うことになりそうになったが、カルネを説明して、無事、受け取ることができた。
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 荷物を満載して市内へ戻るとき、バイクが非常に重く感じられた。何度もふらついた。アフリカに着いた時のバイクの走行距離は7万4280キロを示していた。

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オートバイの旅(30)Argentine-1977/04/25 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(30)Argentine-1977/04/25

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1977/04/25   ホンダ1000GL
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 チリの道路の南端まで行き、プエルトモントからアンデス山脈を越えて、アルゼンチンへ入国する。
 バリーローテェまで砂利道が続いた。だんだんと森林がなくなり、パンパ草原地帯に変わる。風が強くなった。樹木は全くなくなり、草ばかりだ。バリーローテェからさらに南下して、フェゴ島へ向かう。
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 コモドロ・リバダビアでは、停まってバイクを支えているだけでも大変な強風だった。これではキャンプどころではないので、ホテルを探す。バイクを道路端に停めて離れると、強風ですぐにひっくり返ってしまった。
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 アルゼンチンのポリスのチェックは非常に厳しい。荷物を全てぶちまけて調べるのだ。何もないとわかると、たくさん携帯しているバイクの部品に関して難癖をつけてくる。また、ある町で、コロンビアやエクアドルの時のようにキャンプしたいと訪問したら、ひどい目にあってしまった。10本の指の指紋を取られ、取り調べを受けてしまった。警察官の気分で最悪の場合は、拘留される可能性もある。
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 大陸の最南端プンタアレナスへ到着した翌朝、初雪が降った。無理をしてフェゴ島へ渡るのをあきらめた。2日滞在してブエノスアイレスへ引き返す。町の中のアスファルト舗装は、雪が解けているようだった。ところが、並木の日陰の所で、雪の上を走り、大きく転倒した。80キロのスピードで、背負っていたザックに乗るようにして転んだので、30メートルも滑走した。空と並木の枝が流れていく。バイクは私より先を滑走していった。フラシュランプがもぎ取れただけで助かった。
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 町を出ると、アイスバーンのような雪道が続き、両足を出して、ノロノロ運転だ。やっと夜になって一軒のホテルに到着した。ホテルの人たちは非常に親切で、私が到着すると、すぐにコーヒーや夕食を出してくれた。翌朝出発するときには、ホテル代はいらないという。
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 プンタアレナスへ向かっている途中で、大きなバイクのそばに突っ立っている若い男女を見つけた。ドイツの青年だった。彼らのバイクはホンダ1000GLというシャフトドライブのものだ。どうやらジョイントピンが折れてしまったらしい。エンジンはかかるが、後輪が回転しない。エンジン関係のスペアーパーツは全く持っていないという。これだけは私も助けてあげることができない。町まで運んでくれるトラックを待っているというので、彼らに水を置いていくことにした。

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1977/05/12   パラグアイ
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 アルゼンチンのブエノスアイレスに到着。大都市だ。美しい人も多くて、町を行くのも楽しい。
 ここから西アフリカへ行くつもりだったが、砂利道走行で予想以上にタイヤが消耗してしまった。新しいものが欲しいが手に入らないので、パラグアイ、ウルグアイを経由してブラジルまで行くことにした。冬の寒さはブエノスアイレスにも近づいていて、雨の日が多くなった。
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 パラグアイへ行く途中、カウボーイたちが牛を移動させているのに出会た。ちょうど昼飯時で先発隊が食事の準備をしていた。焚火に大きなあばら骨の肉を並べて焼いている。私も仲間に入れてもらって、大きなナイフで骨と肉をはがし、岩塩をつけて食べた。本当にうまい肉だった。肉を食べて、うまいと思ったのはこの時だけだ。
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 パラグアイは熱帯地方らしく、植物が生い茂り、ジャングルを形成していた。また、多くのソ連人移民がいたのには驚いた。
 イグアスの滝を見て、雨の中を引き返しているとき、今度は赤土で濡れた舗装道路で激しく転んでしまった。別にどこも怪我はしなかったが、道路の上を長く滑ったので、雨合羽がボロボロになってしまった。

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1977/06/24   ブラジル
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 ウルグアイからブラジルへ入る。国境は町の真中にある。柵も何もない。よく見たら、道路の真中に「こちらウルグアイ。あちらブラジル。」という看板があった。
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 出入国手続きをするにも、土地の人にその場所を訪ねなくてはならないような開放的な国境だった。ブラジルの入国手続きを終えたら、3時過ぎで疲れていたので、また、ウルグアイの運動場に戻ってキャンプした。
 せっかく覚えたスペイン語でもブラジルでは通用しなかった。キャンプの場所を探すときも、コーヒーを注文するときも困ってしまう。女の子から声を掛けられても残念なことに全く答えられない。
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 サンパウロのヤマハで、アフリカの旅に備えて、バイクの整備をした。そのあと、首都ブラジリアへ行ってみた。将来の未来都市として建設されたこの町は、全く非人間的だった。人が群がり集まる場所がない。
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 ここで日本人2世の青年に会い、家へ行ってみた。両親と女の子が2人、男の3人の家族だった。両親以外は日本語ができない。女の子の振る舞いは、もう日本人ではなかった。非常に明るく、大きな口を開けて、大声で笑う。見ているだけで楽しくなる。
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 リオデジャネイロは世界の観光地で美しい町だ。安ホテルなどはない。いや、部屋を見つけるだけで大変だった。
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 アフリカへどのようにして渡るか。ブラジルからセネガルへ行く船はなかった。いろいろ考えて、バイクも飛行機で送ることにした。私の旅費のほとんどは、この大陸を移動する費用で消えてしまった。

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オートバイの旅(29)Colombia-1977/02/28 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(29)Colombia-1977/02/28

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1977/02/28  メカニック 
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 コロンビアの首都ボゴタに到着。そこでメカニックの青年に出会い、彼の小さな店へ連れていかれた。その店には3人の若者がいて、2人はその仕事場の奥で寝ていた。その日から私も仲間入りをして、仕事場の2階の机の上で寝ることになった。みんな気のいい連中で、私のバイクの整備をしてくれて、さらに毎日飲み屋へ連れて行ってくれた。
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 3人の中でダニエルだけが少し英語ができた。バイクの本が英語であるため、少しずつ覚えたという。でも発音がスペイン語風になるので、私にはなかなか理解できなかった。 しかし、話の出来る唯一の青年だ。彼は34歳の独身で、メディリンの住民だが、この店に遊びに来ていた。
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 彼はメカニックとしては一人前の腕を持っているので、働こうと思えば、すぐに職は見つかるという。しかし、毎朝同じ時間に起きて職場に行くのは御免だ。金がなくなれば、メディリンへ戻ってメカニックとして働き、金が溜まれば、こうしてぶらぶらするという。
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 南米のこんな考えを持つ若者がいるとは思わなかったので驚いた。私がヒッピーのようだと言ったら、彼は「ヒッピーと俺とは違う。ヒッピーは最低だ」と彼なりの人生観があるようだった。

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1977/03/07   人間の背丈
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 エクアドルに入国。コロンビアからは険しい山道が続き、バイクは元気がない。首都キトーでも。メカニックの家に滞在した。
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 このとき会話に中で、習慣の違いを見つけた。人間の背丈を示すときは、手の平を垂直にして示す。そして動物は手のひらを下にして上下させる。

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1977/03/13   枕カバー
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 コロンビア、エクアドルでは山道の登り下りが激しいので、スパークプラグがすぐに濡れてしまう。メインジェットは、アメリカではたびたび変更して、大きなものをつけていたが、この時はニードルの段数を下げた。
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 そんのまま、アンデス山脈を下って、ペルーのアタカマ砂漠へ入っていく。少しプラグが焼けすぎだと思ったが、遅かった。坂を下っているときに急にエンジンパワーが落ちた。エンジンを止めキックするが、圧縮圧が全くなかった。ピストンに穴が開いてしまったようだ。穴の開いた方のプラグを抜き取り、アイドリングを高める。1つのシリンダーだけで民家のあるところまで行き、砂ばかりの空き地でピストンを交換した。ピストンに大きな穴が開いていた。
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 ペルーに入ってから、首都リマまでの砂漠の走行は、非常に暑かった。町に着くたびにペルーのソーダ水インカコーラを飲んで進む。アタカマ砂漠は美しい。砂山と海との間を、パンアメリカン・ハイウェイがどこまでも続く。
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 首都リマでは、29日間ほど義理の叔父の家に滞在して、半年ぶりに休養を取った。
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 毎晩すごいご馳走だが、胃袋が小さくなってしまったらしく、ほとんど食べられない。肉を見ても食欲がわかない。食べなれたパンの方が食欲を感じた。(私の食事はほとんどパンだけだったのです。)
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 叔父が商用でチリへ行くことになったので、1週間後にチリの首都で再会する約束をして、私は出発してアタカマ砂漠を南下した。ぺルの沿岸沿いの道は長い。
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 毎日500キロ以上の走行をした。町を出ると次の町まで200キロ以上は何もない砂漠の道だ。非常に疲れて、サンチャゴに着いたときは、頬骨が飛び出してしまうほどだった。
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 叔父はシェラトンホテルに滞在していた。チリで一番高級なホテルだ。私の姿は安ホテルでも嫌がる格好だ。叔父は私をそこのホテルに連れていき、きれいなユニホームを着たボーイに、私の汚いザック、カバンを部屋へ運ばせた。臭気がプンプンするので、荷物の置き場を探さなくてはならなかった。
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 その日は、十分に身体を洗って寝たが、翌朝部屋の掃除に来たルーム係りは、叔父によく身体を洗わせてくださいと耳打ちしたそうだ。(枕カバーが汚れていたらしい。)

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