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オートバイの旅(53)India-1978/12/21  [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(53)India-1978/12/21

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1978/12/21   レンガ工場
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 ラホールの南80キロにあるカスールからインドへ入国するつもりで行ってみたが、パキスタンとインドの関係がよくないので、閉鎖されていた。しかし、ラホールに回ると、パキスタンの出国もインドへの入国手続も簡単だった。荷物検査もなかった。しかし、バイクのカルネ(無税通関書類)のコピーを何度も見るものだから、時間がかかってしまった。
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 2時過ぎに国境事務所を離れ、腹が減ったので、インドの食堂に入った。パキスタンと全く同じ店構えだった。値段が高い。ロティ(波状のパン)がパキスタンの半分の大きさなのに高かった。料理は同じようなものだった。
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 インドは、乞食がいっぱいで汚らしいというイメージを持っていたが、パキスタンと同じだ。やはり人間がいる大地だ。
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 レンガ工場でキャンプ。夜、工場の人がインド風の小さなチャパティとおかず2つを、きれいなステンレスの皿に入れて持ってきてくれた。真っ暗で何を食っているのか分からなかったが、いつものトウガラシの利いた料理だ。
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1978/12/22   人で渋滞している
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 デリーへ向かう幹線道路は、朝の通勤でごった返していた。車はすくないが、野菜やいろいろな品を町の市場へ運ぶ馬車、牛車、自転車、それに徒歩の人たちが、めちゃくちゃに町へ向かって歩いている。
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 アルミスタールの町は、ものすごいスモッグだ。朝の太陽も黄色なっている。あまりにもすごくて息苦しい。日本のスモッグなど目じゃない。それが郊外に出ると、朝もやにかすんだ太陽になる。
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 デリーに近づくにつれて、インドに人が多いことを実感する。10キロも走れば、すぐに次の町に着き、町の中は人で渋滞している。どの町も市内に入れば道幅は広くなるのだが、歩行者で身動きが取れなくなる。
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 道路を走っているのは、トラックやバスが主で、乗用車は少ない。市内ではインド製のジャワとシングルエンジンのトライアンフが走っていた。250以上のバイクは金持ちしか買えないようだ。50や70のバイクを作ればよいのにと思う。しかし、人で混雑している町にバイクが増えれば、人が多いから交通事故の多発が目に見えている。信号機の色の意味も知らないようだ。
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 ブタ、牛、犬、ニワトリが道路を歩き、人間は車の音を聞いても、頭に荷物を載せたまま、後ろも見ずに左端から右端へ斜めに横切っていく。

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 道路の舗装はパキスタンよりは良いが、バスやトラックがパキスタンと同じように道路の真中を飛ばしていく。
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 インドで初めてガソリンを補給した。1リットル3.48ルピーだった。US1ドルが8ルピーだから、ほとんどヨーロッパ並みの高さだ。インドの物価を考えると、べらぼうに高い。バイクや車に乗っている連中は本当に金持ちなのだ。
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 2日目、農林試験場でキャンプさせてもらった。一家族と2人の青年が住んでいた。英語があまりできないが親切にしてくれた。
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 滞在日を延ばして、クリスマスをここで過ごすことになった。昼過ぎ、仕事の終わった青年の一人を連れてドライブへ出かけた。大きな家の前にロイヤル・エンフィールド(4ストローク、シングルエンジン)があったので足を止めると、窓から若者がお茶でもどうだ。と声をかけてくれた。初めて、インドのハイクラスの家を覗いた。家族の男たちは2階の屋上で日向ぼっこをしていた。男兄弟が全員一緒に住んでいるようだ。
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 一緒に来ていた青年が中に入ってこないので、無理に呼び入れた。ミルクティはその青年にも出してくれたが、私にタバコを進めても、連れの青年には顔も向けない。これがカースト(身分階級)なのだろうか。言葉も交わさないのだ。
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 すこし分かったことは、この見るからにインド人らしい顔つきをした家の人たちは身分が高くて、そうでない顔つきで、ほとんどひげを生やしていない背の低い人たちは、身分が低いようだ。嫌な思いをする前に、そこを退去した。連れの青年は、そういう差別に慣れているようだったが、彼に嫌な思いをさせてしまった。
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 次の日、インド製のトライアンプの新車に乗せてもらた。初めてなので、エンジンがうまくかからない。チェンジレバーとブレーキレバーが逆についていた。4ストロークエンジンらしく、のろのろと走り出す。シフトに手間取り、エンジンが止まってしまった。キックしてもかからない。このバイクは完全なインド製だが、3.40年前の英国製バイクの味がそのまま残っていて、排気音はあのトライアンプ・サウンドだ。バイク野郎ならば、こういうバイクを乗りこなしたいものだ。
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1978/12/26   聖地ベナレス
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 オールドデリーは、毎日がお祭りのような人込みだ。「人間が生きている世界」というようなものを感じる。車や私のバイクは人の後ろをノロノロと進むが、自転車タクシーは、ガチャガチャと鈴を鳴らして勢いよく走っていく。
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 日本大使館で実家からの手紙を2通受け取った。その中にサハラ砂漠を越えていた時の写真が入っていた。地平線の続く砂漠の中を小さなバイクが砂煙をあげて走っている。
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 12月のインドは、一番寒い時期だ。毎朝、寒さを感じたが、それでも昼になると、どんどん気温が上がってくる。
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 インドの道路は、2車線の幅員がある道路でも、アスファルト舗装が1車線分しかないのだ。だから、対向車があるときはお互いに譲り合えばよいのに、なかなかそうはいかないらしい。接触事故でトラックが畑の中に転がっているのをよく見る。
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 ボンベイへ行き、また、デリーに戻った。気がかりになっていたオーストラリアのビザが発給された。往復の航空券がなかったが、6か月滞在のビザが取得できた。係員はこれは特別だよといった。マドラスからマレーシアへの船の予約も取れた。ロシアの客船だ。
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 カトマンズへ行く途中、ヒンズー教の聖地ベナレスで、ひとりの日本人青年に会った。彼は歌手で、自分のレコードをインダス川に流したという。私はあまりインドには引かれないが、彼は完全にのめり込んでいた。彼はヒンズー教に取りつかれ、精神異常になったらしい。インドからヨーロッパまで放浪し、ドイツで精神異常者として保護されたという。両親がドイツまで迎えに来て、日本の精神病院に入れられたらしいが、今またこうしてインドに舞い戻ってきたという。インドはあらゆるものを受け入れてしまう世界なのでしょう。

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