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オートバイの旅(28)Venezuela-1977/01/31 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(28)Venezuela-1977/01/31

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1977年になりました。
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1977/01/31   航空券
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 パナマ市に到着。まだ、パナマと南米を結ぶ道路はありません。計画があるだけだ。どのようにして南米へ渡るか旅行代理店などを回ってみた。船や飛行機を調べた。

 私はどんなに困っても、ホテルへ行こうなどとは考えもしなくなっていたので、3日間、町の中のガススタンドの裏で寝かせてもらっていた。蚊が多くて困った。
 
 町を動き回っているとき、アラスカから旅の取材旅行をしている東京放送のスタッフにあった。彼らのホテルでコーヒーを飲みながら、久しぶりに日本語楽しんだ。(その後、私は世界各国で彼らと会ったり、同じ町に滞在いしていることを聞いたりした。コースも旅行期間もほぼ同じだったのだ。)
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 結局、飛行機でベネズエラへ渡ることにした。バイクも箱詰めにして送る。出発の日までパッケージ会社の倉庫の前で寝かせてもらうことにした。その時の私の姿はひどいものだったらしく、倉庫の若者は私に洗面器と石鹸とタオルを渡して、倉庫の横に水道があるから、洗ったらどうだといった。さらに、その会社のTシャツまでプレゼントしてくれた。そんなにひどかったのかな。
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 出発の日、私もバイクを積んだトラックで飛行場まで運んでもらった。国際カウンターで、ベネズエラからの出国用航空券を持っていないと搭乗させないという。冗談ではない。私はバイクで旅行しているのだから、陸路で出国するのだといても、わかってもらえない。とうとう一番安い国際線の航空券(60ドル)を買わされてしまった。後でわかったことだが、ベネズエラでは、航空券の払い戻しをしてくれないのだ。(詐欺だ。)

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1977/02/04   司令官
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 1時間たらずの飛行でベネズエラに到着。飛行場からアメリカで会ったルイスに電話したら、30キロも離れた首都のカラカスから大きなアメリカ車で飛んできてくれた。彼は黒いスーツを着て、美しい奥さんも同伴だ。素晴らしい歓迎だった。だが、私は汚いズボンと上着だ。申し訳ないと思った。その彼の車に乗るのもためらわれた。
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 バイクの受け取りは失敗した。翌朝、飛行場の税関倉庫へ行き、バイクの無税通関書類(カルネ)を見せたが、今まで飛行機でバイクを持ち込むものはいなかったのだろう。係員はまったくそのような書類は知らず、いくら説明しても聞こうとしない。オートクラブへ相談してみたが、あまりこじれると受け取れなくなるという。そして輸入税を払ってでも、早く受け取った方がよいというのである。
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 通関手続きをして、1週間ぐらいバイクの整備をした。南米の旅にスタートした。すでにバイクは4万キロを走っている。あまりにもスペアーパーツが多いので、減らした。まだ交換する必要もなかったが、日本から持ってきていたシリンダーを2つ交換した。同時にピストンリングも交換した。
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 ガススタンドなどでキャンプしながらマラカイボへ向かった。出発して3日目、ガススタンドの店主が物置で寝ることを勧めたので、好意に甘えて物置で寝ることにした。テントが張れないので物置の壁に荷物を並べて、それを囲むようにして横になった。
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 そこはドアがなく、24時間営業で、たえず人の出入りがあり、少し不安だったが、眠ってしまった。そして、翌朝、ザックからズームレンズのカメラが消えていた。
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 盗まれたものが返ってくるはずはないが、一応、村のポリスに報告した。本庁のポリスがやってくるまで待つことになった。村の人たちは非常に同情してくれた。ポリスも非常に親切だった。待っている間、私は村の人たちの家に招待され、食事をいただいたりして、思わぬ村人との交流を持ちことになった。
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 夕方。本庁から護送車がやってきて、その日の深夜働いていた若者3人を護送していった。私もついて行き、その夜は警察の中で寝た。翌朝、ガススタンドの主人も呼ばれて、取り調べを受けたが、全員釈放された。
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 犯人は、スタンドで働いていたものと思うが、物置へよく顔を出していた男は来ていなかった。スペイン語が話せない私には、手の打ちようがない。
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 そのとき以来、私は警察署でキャンプして進むことが多くなった。
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 南米の人は非常に親切だ。ポリスたちも歓迎してくれた。小さな町では、私が警察へやってきたことを知って、人々が押し掛けてきた。昼間はテントを張ることができないので署内にいると、牢屋の中の連中も私の訪問を大歓迎してくれる。犯罪者の雰囲気はまるでない。金のある連中は食堂から飯を取り寄せているらしく、毎食、食堂の小僧が出入りしていた。優秀な囚人は警察の中を歩きまわており、掃除をしたり、他の囚人の世話をしている。
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 町の子供が、私の顔を一目見たいと押し寄せるので、私も警察の迷惑になってはいけないと思い、見物人を引き連れて公園へ出かけたりした。もう大騒ぎだ。私も少しばかりスペイン語を覚えたので、いつまでも動物園の檻の中の動物のようにはなってはいられない。私は公園の台の上から、一人一人、指名しては名前や歳を聞いて会話を楽しんだ。何を聞いても、大騒ぎになる。
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 なかには逃げ出す子供もいるが、私が子供の名前を繰り返すだけで発音がおかしいのだろう、みんなが大笑いする。また、年上に見えるとか、若く見えるなどと言うたびに大騒ぎだ。君はかわいいねなどというと、みんなに冷やかされて、赤くなって逃げ出す娘もいた。若者たちは、指と指を合わせて、好きかと聞いてくる。話をするたびに大笑いする陽気な連中だ。
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 後で、警察まで食べ物を運んでくれる人もいた。大きな警察では、宿舎の食堂で若いポリスたちと一緒に食べさせてくれるところもあった。
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 コロンビアの国境の警察の基地を訪ねたときは、その北部一帯の司令官に会い、その人の名刺をもらった。その名刺は、検問で取り調べを受けるときには、絶大な威力を発揮し、取り調べが簡単にすんでしまった。

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オートバイの旅(27)Mexico-1976/12/14 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(27)Mexico-1976/12/14

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1976/12/14       正月のお餅
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 州都ラパスへ引き返している途中、突然犬がハイウェイへ飛び出してきた。一瞬前輪に犬が触れたかと思った。犬はバイクと並んで走り続け、バイクの前へ出ようとする。大きな犬だったので、引いてしまったらバイクは大転倒する。スピード上げた方がよいのか落とした方がよいのか困ってしまった。
 この辺のトラックには、大きな鉄格子のパイプが付けられている。突然飛び出してくる動物や牛が多いので、万一の場合に備えて、つけているらしい。

 メキシコ本土に渡るフェリー乗り場について、切符を買おうとしたら、バイク用の切符を売ってくれない。何か書類が不足しているらしいが、スペイン語なので理解できない。とうとうフェリーに乗り損ねて事務所の前で寝ることにした。港の警備員と親しくなり、私もバイクも見張ってもらうことにして寝た。
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 この半島は免税地区なので、本土へ渡るための税関の書類が必要だった。町をあちこち走り回って書類をそろえた。そんなことで切符売り場の娘とも親しくなり、デッキクラスの切符を頼んだのに、キャビンの切符をくれた。
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 メキシコ本土の幹線はすごい交通量だ。トラックが追いかけてくる。カーブでも登り坂でも追い越そうとするので、恐ろしい。しかし、だんだん慣れて、私の運転の荒くなり、登り坂でも追い越しするようになった。
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 1976年のクリスマスはメキシコ市で迎えた。暑くてクリスマスという言葉は、ピンとこない。
 ユカタン半島のはずれに美しい海岸を見つけた。新婚旅行するなら、また、ここへやってこようかなどと思てみたりした。
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 メキシコ郊外のピラミッドの下でキャンプした時、銃を持った男たちに取り調べを受けたりして驚いたが、夕方のピラミッドのシルエットは美しく、印象的だった。
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 南部にジャングル地帯には珍しい植物が生い茂り、地表が全く見えないぐらいだ。空地があっても植物で覆われていて、キャンプができない。何しろ気味の悪いトカゲがうろうろしている。
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 パンアメリカン・ハイウェイへ引き返すときからバッテリーが異常だ。朝、ニュートラルランプの光り方が弱くなった。そして、とうとうホーンが鳴らなくなり、フラシュランプも点滅しなくなった。夜中にも放電しているらしい。
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 バッテリーが空になれば、エンジンはかからない。このバイクはマグネット点火ではない。大きな町へ行っても原因を調べられる専門修理工がいなかった。また、メキシコには同じサイズのバッテリーがなかった。次の国グァテラマへ行けば、新しいバッテリーが手には入りそうだったので、完全に放電してしまわないように夜中に3回ほどエンジンをかけて充電した。
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 国境まで後500キロ地点に達した夜、エンジンをかける回数を1回減らしたところ、翌朝バッテリーは完全放電して空になっていた。
エンジンはかからない。仕方がないので、道路端にキャンプしていたテントとバイクをそのままにして、バッテリーをもって徒歩で町へ向かった。
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 途中トラックに乗せてもらって町に着いた。いろいろ考えた末、バッテリー液濃度が下がってしまったのだろうと考え、液を全部入れ替えてみた。たびたびの急激放電のために発熱して、バッテリーケースは変形してしまっていた。3時間ほど充電してバイクの所へ歩いて戻った。その間にも放電してしまうのではないかと心配したが、液を交換したことが成功して、エンジンがかかった。バッテリーが直ったと思えたが、心配だったので、今日中にグァテラマの首都グァテラマまで走り通すことにした。
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 国境を超えると、すぐに暗くなった。夜9時を過ぎるとガススタンドも閉店になり、ガス欠も心配になった。初めての夜の走行だが、それほど不安はなかった。山の中は真っ暗で、バイクのライトでは不十分だ。ライトに浮かび上がるセンターラインを追いながら進んだ。夜の12時過ぎに、やっと首都グァテラマに到着した。これでバッテリーの心配はなくなった。
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 こんな時間に町に到着したのでは寝る場所もない。しかたなく深夜営業のカフェーを見つけて夜を明かす。絶えず、流しの楽団がやってきて、ラテン音楽を演奏する。とても、うとうとできないほど騒がしかったが、楽しい夜だった。
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 翌朝、バッテリーを手に入れた。グァテラマはバイク天国だった。ものすごい数だ。車がバイクの中を小さくなって走っている。信号機の色が青になると、2.30台のバイクが、まるでレースのスタートのように走り出す。

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 中米でのキャンプは楽しかった。ヤシの木があちこちに茂っている。背の低いものが多く。手を伸ばすと取れるものもある。ひと泳ぎしてから、もぎ取ってヤシのジュースを飲むのは最高だった。不純物の多い井戸水なんかもう飲む気がしない。
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 中米の日本大使館へ、実家からの手紙を受け取りに行った。ちょうど昼飯のために家へ帰ろうとする大使にあった。いいおじちゃんで、私の汚い姿を見て興味を持ったらしい。昼飯でも一緒にどうだと言われてついて行った。
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 郊外にある素晴らしい家だ。昼飯前に庭にある素敵なプールで、ひと泳ぎする。私は水泳パンツを持っていないので、おじいちゃんのパンツを借りる。
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 その後、すばらしい昼食をいただいた。大使夫人は正月のお餅を焼いてくださった。食後、日光浴しながら、お茶を飲んでいたが、大使はいつの間にか、うとうとと眠ってしまった。夫人にお礼を言って、こっそりと大使の家を去った。素晴らしいおじいちゃんだった。
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 その後、私は、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ、パナマと調子のよくなったバイクを走らせ、南下した。中央アメリカの道路は、マンホールの蓋がなくなっているところもあり、更に、市内の手前には道路にダンパーが埋められているのです。これは、大きな半球形の障害物で二輪車は普通には越えられません。気が付かずに越えると、間違いなく転倒です。そんなことで、安心できない行程でした。

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オートバイの旅(26)Mexico-1976/12/09 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(26)Mexico-1976/12/09

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1976/12/09   パサパサ
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 半島の中ほどまで南下すると、巨大なサボテンが岩の間から現れ始めた。高さは20メートルぐらい。南下するにしたがって、町はさらにひどくなって、買うパンは乾燥して、パサパサ。缶詰も錆びている。
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1976/12/10   トイレ
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 サンタ・ロザリアは人口1万の工業の町だ。食料(パンだけ)の購入とカフェーにも行きたかったので、ハイウェイから下りた。
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 木造の半分壊れた家並みとほこりが舞い上がる道路。ゴミが散らかった大通りの両側に、塗装の剥げた古い車が駐車している。その中をノロノロ進みながらメルカード(市場)とカフェーを探す。見つかったが異様な雰囲気なので、怖くなり入るのを中止した。
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 次の町ムレジも同じような町並みだが、すぐに道が分からなくなった。狭い道で一方通行だ。どんどん奥へ入ったら行き止まりだ。そこにタクシーの運転手がいたので聞いてみるが、まったく通じない。
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 どうにかこうにかメインストリートのようなところへ出て、手書きの小さな看板にレストランとあるのを見つけた。ドアが2つあるだけの小屋のようなところだ。6人ほど座れる丸テーブルがある。開け放たれたドアからバイクが見える位置のテーブルに座り、コーヒーを注文する。これだけはすぐに通じた。
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 娘がプラスチックのカップにスプーンをつけてもってきた。私はきれいなカップもあるんだなと喜んでカップをのぞくと透明だ。湯だけだ。あれまあと思ったら、テーブルの上にインスタントコーヒーの容器があるのを見て納得。自分の好きなだけ、インスタントコーヒーを入れて飲むという仕掛けだ。
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 トイレへ行きたいが通じない。トイレ、レストルーム、ラバトリー、ウォッシングルーム、WCなど知っている単語を並べてみたが駄目だった。しかし、根性で探し出した。裏庭のドアの代わりに布が垂れ下がっている小屋が便所だった。トイレットペーパーが備えられているのが不釣り合いだ。
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1976/12/11   耳鳴
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 ロレトの町の近くのカーブで、道路端にいた牛がハイウェイ目がけて突進してくる。茶色の牛は横目でちらっとこちらを見て、バイクのほんの1メートル先を通過していった。冷や汗をかいた。
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 ロレトの町から気候が変わったらしく、景色も変わった。今まではサボテンしかなかったが、山に緑が多くなり、樹木らしいものも見られるようになった。ギガンタの山脈を超え、インスルジェンツの村へ下っていくと畑もみられるようになった。大農園だ。こちらではランチョと言っている。
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 安全性を考えて、アメリカの交通規則のまま、昼間もヘッドライトをつけて走っていた。前からくる車がみんな「ランプがついているぞ」とヘッドライトを点滅させて合図してくる。私はそのたびに、ありがとうと手を上げなくてはならない。アメリカでは「ランプがついていないぞ」とライトの点滅で注意されていたのだ。
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 町に近づくと道路わきに花や十字架や石碑が並んでいる。交通事故に泣く家族が多いようだ。町から離れると行きかう車も減り、ただ、牧場の柵だけが延々と続く。
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 夕方、空地にバイクを入れ、エンジンを止めると、急に音のない世界が襲ってくる。こんな所には、小鳥さえいない。風もない。自分の呼吸する音だけがいやに大きく聞こえる。生き物である自分の存在を感じる。耳鳴りもしてきた。しばらくして耳の鼓膜が鈍い音に共鳴した。音としてではなく、耳鳴りのような感じだ。だんだん大きくなっていき、車が私の前を通過していく。その排気音は、騒音というより、音のない世界から救ってくれる音楽のようだった。

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1976/12/12   黄色いチョウ
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 この半島の州都ラパスへ向かう。牧場の柵のないところでは、道路に飛び出した牛がはねられたて死んでいる。坂の途中で見つけた牛の死体には、ハゲタカが群がり、私のバイクの出現で一斉に飛び立つ。目の前が真っ暗になるぐらいのすごさだ。そのうちの1羽がヘルメットにぶつかるところだった。
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 ラパスは人口6万人のバハ・カリフォルニア州の州都で、大きなスーパーマーケットもあり、浜の近くには美しい家々が並んでいた。
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 さらに南下して、キャンプを決めたエル・トゥリウンフォの近くまで来ると、大きな樹木はないが、落葉の灌木が出現し、黄色いチョウが目についた。そして、ディディディディと鳴くゴールデンフィッシャーという小鳥も現れた。
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1976/12/13   ゲンゴロウ
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 半島の南端サンルカスに到着。この近くには葉の小さな樹木もあった。港の前のレストランにはキョウチクトウも植えられていた。
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 夜、港の近くでキャンプする。水筒の中に水垢のようなものが浮かび、小さなゲンゴロウのような虫が泳いでいた。匂いはないし、うまい水だったので、ヨードチンキを3滴ほど落として飲んだ。ゲンゴロウはまだ泳いでいた。

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オートバイの旅(25)Mexico-1976/12/06 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(25)Mexico-1976/12/06

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1976/12/06   BANCO
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 月曜日。この日はメキシコに入国するのだ。夜12時ごろ目がさめた。ラジオが鳴りっぱなしだ。昼間は直射日光が強くて暑いくらいだから、寝袋に入らないで寝てしまったのだ。夜になってからどんどん気温が下がり、寒くて目が覚めたのだ。
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 ここからは半砂漠地帯で、標高は2000フィートだ。気温の変化が激しい。登山用靴下をはき、雨合羽を着て、寝なおした。3時ごろ、寒さが更に厳しくなり、眠れなくなった。何か食べたら暖かくなるだろうと、寝袋の中から手を出してパンをかじった。
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 6時半、明るくなったので、テントを出る。手がかじかんでいく。寒暖計を取り出すと、ブルーの液体がみるみる下がっていき、マイナス9度で止まった。空気が乾燥しているためか、バイクのシートには、ほんの少しだけ霜が降りていた。
 エンジンも冷え切っている。なかなかかからない。かかっても少しグリップを回すだけで、止まってしまう。
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 来た道を引き返してサンディエゴに向かった。市内でガスを満タンにして、フリーウエイ805号線を南下する。ティファナへ向かう。近づくにつれ、緊張してきた。うまく国境を越えられるだろうか。メキシコに入ってしまったら、アメリカのように簡単には欲しいものが買えない。何か必要なもので買い忘れはないだろうか。
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 30キロも進むと国境のゲートに着く。車の列の後ろに並ぶと、係員からそのまま早く通過しろと催促される。あまりにも簡単に入国できたので、本当にメキシコに来たのかいないのか半信半疑だった。しかし、ゲートを超えるだけで、こうも町の様子が変わるものかと驚いた。私にとってアメリカとメキシコの文化の色合いの違いはショックだった。初めて「国境」という感覚を実感した。
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 今日の目的地であるエンセナダの標識をやっと見つけて町の中心地へ入る。ものすごい人だ。アメリカではこれほど混雑している町はなかった。汗をびっしょりかきながら、信号待ちをしていると、大きなビルにBANCOというサインが目に入った。銀行だろうと推測する。私が初めて覚えたスペイン語だ。英語はわずかながら覚えたが、スペイン語はまったく白紙である。バイクを道路わきに停め、その銀行に入る。広いスペースだが、入り口まで人でごった返している。どの列に並んでよいのかも分からない。まごまごしている私に、旅行者らしい青年が話しかけてきた。この時ばかりは、英語が日本語のように身近に聞こえて嬉しかった。
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 行列はまったく前へ進まない。やっと1時間後に両替できた。メキシコペソの価値が下がってので、両替する人が多い。
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 銀行を出ると、またまた驚いた。銀行のまわりは二重駐車になってしまい、バイクを出すにも出せない。私は汗びっしょりだ。朝、出発した時のままの姿で、雨合羽を着ていた。困っていたら、ポリスらしい男がやってきたので手振りで助けを求めた。彼は銀行へ入っていき、しばらくして男と出てきた。車を動かしてくれた。
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 早く、この町から抜け出したかった。町の外へ出たときはほっとした。できたばかりの有料道路を南下した。
 3時過ぎ、陽がだいぶ海面近くなってきたので海岸にテントを張った。3人の男が泳いでいた。彼らと話したが、まったく言葉が通じない。お互いに意思を伝えようとして大声を出しあった。でも英語とスペイン語では通じないのだ。

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1976/12/07   トウガラシスープ
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 マネアデロの町に入り、カフェーを探すが見つからない。スペイン語の看板はすべて同じように見える。アメリカの町並みに慣れてしまっていた私には、バハ・カリフォルニア半島の景観は異様だった。一口にいうと、町はバラックの集まりだ。同じようなバラックばかりなので、店の見当がつかない。
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 ガソリンは、エキストラ(スーパー)がアメリカのレギュラー並みで、オクタン価は91。レギュラーは81だった。(アメリカではハイオクは98、レギュラーは89.)エキストラは10リットル当たり40ペソ(約600円)レギュラーは10リットル当たり33ペソ。
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 先を行くと、「アルト」の標識。ストップサインが目についたので、横の建物に入ってみた。そこが正式の出入国管理事務所のようだった。パスポートとツーリストカードにスタンプが押された。
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 次の町サント・トーマスでガスの補給をしたとき、レストランを教えてもらった。その店は入り口が小さくて奥が深く暗い土壁で、とても自分では見つけることのできないものだった。トイレを探したが、そんなものはない。レストランにないぐらいだから、ガススタンドにあるわけがない。まいった。スペイン語の会話帳にあったトーストを注文する。出てきたものはカリカリに焼いた薄いパンの上にツナとキャベツ、トマトなどがのっていた。小さなピザのようだった。
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 それと一緒に、カップでスープのようなものがついてきた。スプーンで混ぜて飲んでびっくり。トウガラシスープだった。後でドライブしながら考えたところ、カップに入っていたのはスープかと思ったが、本当はトーストにかけるスパイスだったらしい。

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オートバイの旅(24)USA-1976/11/16 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌


(24)USA-1976/11/16


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1976/11/16   サンドイッチ
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 外はすごい霧だ。ウェーバー氏と夫人に固い握手をしてお礼を言う。夫人は強く抱きしめてくれた。(彼らには子供がいなかったので、その愛情をもらってしまったようだった。)
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 カリフォルニア州道1号線を南下。ウミネコの飛び交う海岸で、夫人が作ってくれたサンドイッチをほおばる。夜は、その海岸の無料キャンプ場で寝ることにする。そこへ12人の子供や青年が2台の車でやってきた。そして芝生の上に寝袋を並べた。すごく騒々しくなったが、二人の子供からタバコをもらったりして、親しくなった。
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1976/11/17    ユーカリ
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 この沿岸地帯は暖かい。ちょっと前までのあの寒さがウソのようだ。ズボン下をはいたままだったので、昼過ぎには、汗をかくほどになった。
 192号線は日本の田舎道以上にくねくねしていて、非常に楽しい。大きなユーカリの木の並木が続いた。特に小葉のユーカリは美しい。今日は谷川でキャンプ。標高が高い割には暖かく、寝袋なしで寝ることができた。
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1976/11/18   小松君
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 ロスアンゼルスへ向かう。市内のフリーウェイに入ってしまうと、バイクを停めて地図を見ることもできないので、あらかじめコースを決めて、大体の地名は暗記した。
 ロスに近づくと車線が増えた。往復8車線を車がいっぱい走っている。今までの交通量からは想像もできないほどだ。
 USヤマハへ行くと、バイクの点検をしてくれるという。ありがたい。明日から点検してもらうことにして、友人の家へ行ってみた。下町にあるアパートだ。
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 アパートの女家主は、私のすごい格好を見て驚いたのだろう。「コマツは今いないよ。お前をここに入れるわけにはいかない。」と怒鳴って、玄関のドアを閉めた。そしてロックした。あきらめて立ち去ろうとしたら、背後から小松君に声を掛けられた。女家主の言葉を伝えたが、彼は気にするなと私を部屋に案内してくれた。彼は夜間の大学で経済学を学び、昼は働いていた。彼の部屋はあまりきれいとは言えない。私の東京での下宿と同じくらいに汚い。(でも気になる。さらに汚れそうで・・・・)彼は3人の中国人の青年と共同生活をしていた。彼らは料理が得意で、いつも作ってくれるという。
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1976/11/19   AJウィトニー
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 USヤマハは、あす土曜日に工場マシンのレースがあるそうで、忙しく動いていた。その工場マシンの整備を見ていて一日が終わった。
 次の日は、モトクロスの練習試合へ連れて行ってくれた。民間のレーストラックで、山全体がモーターサイクルのレジャーランドになっていた。山の斜面は蜘蛛の巣のように道ができていて、自由にバイクで走り回ることができる。
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 ここで、AJウィトニーという少年とあった。彼はヤマハYZ80に乗るUSヤマハの契約ライダーだ。いい腕をしており、オープンレースでは、彼のYZ80は400のレーサーを軽く追い抜いて行った。スタートではパワーに負けて最下位だが、1周ごとに順位を上げて、結局一位となる。彼の弟も速く、1位2位を彼らが独占した。


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1976/11/21   工場マシン
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 日曜日、今日はレースの本番。レースの展開は昨日と同じだ。レースは見るのも楽しいが、自分も参加すればもっと楽しいだろうな。昼頃から太陽の照り付けが厳しくなり、私の頭がオーバーヒート。頭が痛い。ヤマハの工場マシンは1.2位を独占した。
 毎週行われるレースに準備に忙しくて、なかなか私のバイクの整備は進まない。
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1976/11/24   整備
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 やっと整備が始まった。前後のタイヤの交換。折れ曲がったフロントバンパーの交換。リアーショックも大きなもの交換。
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1976/11/26   砂嵐
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 フリーウエイ10号線を真っすぐ東へ向かった。河原でキャンプ。ひどい暑さだ。日陰を探してテントを張る。夜になってから砂嵐だ。テントの支柱を支えて寝た。
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1976/11/27   悪い手紙
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 砂嵐のために、暑さもどこかへ飛ばされたらしく、今朝は少し肌寒い。
 アリゾナ州のフェニックスに戻り、先輩の家に行ってみる。日本からたくさんの手紙と荷物が届いていた。家からの手紙の他に嬉しい手紙もあった。ギリシャのシェル石油がガソリンを提供したいというのだ。悪い手紙もあった。実家から送ってもらった広角レンズがシスコの税関で引っかかっていた。時間がないので送り返してもらう。
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1976/11/29   現金輸送車
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 先輩名義で送った4000ドルを受け取る。これからの国での両替を考えて、少額の紙幣にした。後で、その数の多さに驚いた。私のバイクは現金輸送車になった感じだ。紙幣は1ドル5ドル10ドルをそれぞれ50枚。20ドルが95枚。トラベラーズチェックが10ドル100枚。20ドル50枚。50ドル12枚。これだけのものを身体に巻き付けるのは困難だ。
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1976/11/30   保険会社
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 アラスカでフェリーに乗った時にバイクが倒れて、風防が壊れたが、その損害賠償金が届いていた。私が送った見積書は67ドル。実際にかかった金額は60ドルだが、送られてきた金額は33ドル。保険会社の支払い明細書が同封されていた。「このアクシデントは、非常に疑問がある。ゆえに見積金額の半額を支払う。」とあった。保険会社はどこの国も同じだ。
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 実家からラジオが送られてきたので早速テストしてみたが、日本語放送は聞こえなかった。
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1976/12/01   メインジェット
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 バイクのシートに霜が降りていた。アリゾナにも冬がやってきたようだ。
 ユッカ公園でキャンプして、キャブレターのメインジェットを120番に交換する。しかし、日本から持ってきたものには、違う番号のものが混じっていた。左右のキャブに違うサイズのものを使うわけにもいかない。日本のヤマハの営業所を恨み、それをちゃんとチェックしなかった自分に腹がたった。
 そういうときは、むしゃくしゃして止めていたタバコが吸いたくなる。何か食パン以外のものが食べたい。

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(24)USA-1976/11/16


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オートバイの旅(23)USA-1976/11/08 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(23)USA-1976/11/08

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1976/11/08   日本語の辞書
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 中米の旅行準備のため、シスコへ行く。フリーウエイには制限速度の表示はないが、大体100キロのスピードで走っているようだ。シスコに近づくと空気が濁ってきた。シスコ周辺の新しい住宅地は,丘の頂上まで定規で計ったようにきちんと並んでいる。あまり感心した眺めではない。
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 市内の中心部でメキシコ大使館を見つけた。駐車させたもののバイクから離れるのが非常に心配だった。エレベータに乗ろうとしたら、ほぼ満員だ。とてもザックやヘルメットを待ったままでは乗れないので、あきらめて見送る。ドアが閉まるときに中の連中は、グッバイーと手を振る。アメリカ人はこんな人懐っこさがある。
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 次の日も160キロ離れたシスコへ110キロ前後のスピードで飛ばす。パンクしたらどうなるか。ハイウェイにはスリップ防止のため、進行方向に細かい溝が入れてある。これがバイクには危険だ。タイヤが溝に沿って非常に激しく揺れる。
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 途中で道を間違え、大きな釣り橋をわたり、オークランドについてしまった。50セント払ってまたシスコへ戻る。
 パナマ大使館では、6ドルと引き換えにその場でスタンプを押してくれる。ニカラグアも3ドルでOKだった。
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 メディカルセンターでコレラの予防接種(6ドル)を受けた後。ケーブルカーが走っているマーケットストーリを走る。あの急な坂道に信号機があるのには驚いた。信号が青になってもなかなか発進できない。エンストだ。なんとか頂上まで行くと、今度は谷底へ落ちるような下り坂。ローギアで、ブレーキを握りしめながら下っていく。その坂道でも道路端には駐車している車でいっぱいだ。よく転げ落ちて行かないものだと感心する。前輪タイヤを歩道の縁石に押し当てている。
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 ハンバーガーの店で2.3人の若者たちと少し話をし、店を出ようとすると、老婦人が声をかけてきた。おじいさんは口が不自由で、それに手足も不自由だった。やっと聞き取った彼の話では、以前にバイクにはねられたて、そんな身体になったという。彼はバイクが憎いに違いない。しかし、彼は小言を言うのではなく、バイクは危険だから、注意してゆっくり走って安全な旅行をしてくれというのである。ずしんと胸にこたえた。
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 家に帰ると、ランダが、今日は外へ食事に行こうという。近くに住む学生も誘って、魚介類専門のレストランへ行った。
 彼女は日本語のガイドをしているくらいだから、日本語がうまい。今夜の会話で心に残っているのは、辞書のことだ。英語の辞書には、語源が書いてあるが、日本語の辞書には現在の意味しか書かれていないので語源が分からない。彼女は日本語を勉強しているとき、その不便さを痛感したという。そして、日本人は自国の言葉の歴史にあまり興味を持っていないのではないか。というのである。
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 ランダが人生について話をするとき、たびたび学生のころ、ヨーロッパを自転車で旅行した話が出てくる。20年前のことだが、彼女はその時以来、私の人生は変わったという。
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 バイクを点検すると、後輪のベアリングにガタが出ていたので、取り外したところオイルシールがいかれていた。なかに雨水がはいり、グリスがすべて流れ出し錆びていた。

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1976/11/12    老夫婦の家
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 娘のアンナは学校へ、母親のランダも仕事へ出かけた。ご主人のカールに見送られて私も出発する。町で郵便局へ寄り、たまっていたフィルムと日誌を日本へ送ることにした。郵便の女性は親切で、日誌とフィルムを一緒に送ると、5ドルもかかるから別々に送りなさいと、もう一度計算してくれた。あまり変わらないので、今度はフィルムと手紙だけエアーメールにして、日誌は船便にしなさいと、また計算したところ、2ドルたらずで送ることができた。税関の申告カードも彼女が書いてくれた。(ありがとう。)
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 次はシスコで知り合った青年の家へ向かった。海岸に沿って南下する。パシフィック・グローブまで非常に美しい海岸が続いた。
 青年が住んでいる町に到着いたが、彼が帰ってくるまでには時間があったので、ミッションオイルの交換をする。
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 6時ごろになってスズキの550に乗るセルダン君が帰ってきた。2階建ての一軒家の一階部分が彼に住まいだ。小ぎれいに片付いている。とても男所帯とは思えない。
 この町は漁港だったので、魚料理のレストランが多い。彼は一軒だけイカ料理で有名な店があると言って、そこへ連れて行ってくれた。その店は非常に有名らしく、私たちが席に着くまでに約1時間、店の前で待たされた。イカをころもで揚げたものと、フライにしたナスがトマトソースの中に浮かべてある。しかし、トマトソースが多すぎて、どこにイカがいるのか、なかなか見つからない。サラダとコーヒーがついて5ドルだった。
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 翌朝、窓の外は素晴らしい快晴だ。ところが、それから10分ほどして外を見ると、どんよりと雲が覆っていた。セルダンがいうには、これがシスコ独特の気候で、寒流と暖流がぶつかりあって、激しく変化するのだという。
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 今日は、レイクタオーで会ったあった老夫婦の家へ行き、天気がよければヨセミテ公園へ行くことにした。セルダンはハイウェイまで送ってくれた。途中、美しい海岸へ連れて行ってくれた。日本の海岸の景観とは違う。松の木は多いが、気候が違うため、カリフォルニア沿岸独特の植物がある。砂地はアイスグラスという肉の厚い草類が覆っていた。また、メタセコイア、ユーカリ、そして変わった杉類が多くみられる。
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 モントレーから少し戻って、カリフォルニア州道156号線、152号線を北上する。モデストの町の周辺は果樹園だらけだった。訪問したウェーバー夫人は、春になると桃などの花が咲き、とても美しいという。ご主人は湖へ釣りに行き留守だった。この日の夜は、教会のディナーパーティがあったので連れていかれた。
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1976/11/14    暖炉
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 ウェーバー夫人は料理が上手だ。3食とも時間をかけて作ってくれた。涙が出るほど嬉しかった。
 この家での私の仕事が見つかった。暖炉に火が絶えないように薪を放り込むことだ。あまりにも熱心にやったものだから、部屋の温度がどんどん上がり、私は額から汗をかき、ご主人も温度計を見て、これは厚いと夫人ともどもセーターを脱ぐ始末。(ごめんなさい。私には暖炉の火の知識などなかった。)

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オートバイの旅(22)USA-1976/11/02 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(22)USA-1976/11/02

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1976/11/02   塩を吹いている
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 ビルの下宿を出発してデスバレーへ向かう。スプリングマウンテンの峠を越えると、道はどんどん下る。地の底へ向かっているようだ。車は一台も通らない。気温がだんだん上がってくる。バイクで走っているというより谷底へ吸い込まれていくように感じる。
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 谷底に降り立つと道は悪くなった。まわりの山々から落ちてくる土砂がすごくて、道路を半分埋めてしまっている。ある場所では熱と風の浸食のためか、道路の基礎がむき出しになり、路体はこなごなになっていた。
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 谷の底には小さな池があった。池のまわりは塩を吹いている。カメラを通してみる景色は別に他の土地と変わらないが、海面と同じレベルの窪地にいると思うと楽しくなる。まわりの山々の高い壁面を見ていると、アメリカ大陸のすべての土砂がこの谷へ流れ込んで来るような錯覚さえ起こす。
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1976/11/03    オーバーヒート
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 ストアーパイプウェルズの町は、昔は銅山の町で、そのとき使用された機具などが展示されていた。蒸気で走るスティームトラックがあった。運転席の横に大きなボイラーがついている。
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 その町からロネパインまでは登りが続いた。峠まで一気に約1000メートルを登ることになる。だんだんオーバーヒート気味になり、エンジンのパワーが落ちてくる。スロットルグリップがどんどん回っていく。シフトダウンしてもスピードは落ちる一方だ。
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 なんとか停車できるところを見つけ、バイクの点検だ。オイルはいっぱい。ミッションオイルも適量だ。オイルポンプもOK.どうやらオイルの質が原因らしい。リットル80セントの安いアウトボードオイルだ。ピストンに穴があいては困るので、たびたび休んで峠を登り切った。
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 ビッグパインに着いた私は、キャンプために山の奥のレストエリアへ向かった。ビッグパイン(大きな松の木)は、地図では森林地帯になっていたが、樹林なんかほとんどない。やがて谷川の脇に巨大な松の木を発見した。なぜ、こんな大きな松の木があるのに、まわりは石がむき出しの禿山だ。やはり、伐採が激しく行われて、そのまま放置したために表土が流れてしまったのだ。
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1976/11/04    明日の峠のために
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 ビッショプの標高は4147フィート。今日は3000フィートを何度も登ったり下ったりしなくてはならない。
 まず、セウィン・サミット峠(7000フィート)に挑戦する。ある所では3速まで落として登り切った。そしてどんどん下り、デッドマンサミット峠(8041フィート)、それからコンウェイサミット峠(8138フィート)、またどんどん下がり、ブリッジボード(6465フィート)まで下る。そして最後にルート89号線に入ってモニター峠(8314フィート)に挑んだ時から、バイクはオーバーヒート気味になり、ギヤーを落としてもパワーはどんどん落ちていく。
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 坂の途中で停車すると焦げ臭い。スロットルグリップを話すと、エンジンが止まりそうだ。オイルの量を増やし、キャブのニードルポジションを変更して、ガソリンの量を増やした。なんとか頂上まで登ることができた。そして、マークリー村(5526フィート)まで転げ落ちるように下った。
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 湖畔でキャンプし、明日の峠のためにスパークプラグの変更、ポイントの点検と調整をする。

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1976/11/05   3世の追川青年
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 湖畔でキャンプしていたので今朝は暖かかった。いつもの防寒服として着ている雨合羽を着ないで出発しようとしたぐらいだ。しかし、ハイウェイに出てびっくり。手足の感覚がなくなるほど寒い。出発そうそう7382フィートの峠を超え、レイクタオーの町に着く。カフェーに入ると寒かっただろうとコーヒーを何杯も注いでくれる。
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 レイクタオーは、カナダの湖のように美しかった。針葉樹林に囲まれたブルーの湖だ。このあたりの道路は、日本の山道と少しも変わらない。ヘアーピンカーブの後、すぐに急勾配の上り坂になる。ギアーを一速にして登る。森林の中に入っていくと非常に暗くなった。
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 7000フィートから2411フィートのグラスバレーまで、ブレーキをきしませての下り坂だ。太平洋まで下り坂が続く。
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 ハイウェイは森の中を下っていき、グラスバレーに近づくにつれ、針葉樹林から広葉樹林へ変わっていった。さらに下ると、森はなくなり、畑と農場になった。マリスビルからは平坦なハイウェイになった。
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 ここでアラスカの出入国管理事務所で働いていた3世の追川青年の家を訪ねることにした。2世の両親と非常に元気な80歳のなるおばあちゃんがいた。妹と弟がいて、姉はサンディエゴ、弟はサンフランシスコの大学へ行っているらしい。
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 畑を見せてもらった。大きなコンバイン3台が稲を刈っていた。ここでは田植えなどの作業はない。ヘリコプターで種子をばらまく方式だ。父親は、日本ではなぜ田植えなんかするんだと不思議がっていた。
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1976/11/06
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 おばあちゃんが作ってくれた大きなサンドイッチをザックに入れ、サンフランシスコへ向け出発。中央アメリカへの旅の準備として予防接種、ビザの取得など、たくさんの仕事がある。
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 ルート80号線を通ってサンフランシスコへ前進する。予想とは違って禿山が多いのに驚く。オークランドを過ぎ、サンホセに着いた。ガススタンドの事務所を借りて、おばあちゃんが作ってくてたチーズ、ハム、レタスがはいた豪華版サンドイッチをぱくついた。夢中で全部食べてしまった。
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 サンフランシスコから100キロ南のアプトスという町へ向かう。アラスカで会ったポールの姉さんを訪ねるためだ。
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 サミットパス(1808フィート)を登っている途中でオーバーヒートし、エンジンが止まってしまった。交通量の多い坂の途中だ。バイクを停める場所もない。エンジンが冷えてから、オイルの量を増やして一気に峠を越えた。やはり荷物が多すぎる。
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 ポールの姉のランダの家でしばらく滞在させてもらうことになった。ご主人は大学の教授だ。今は自分の研究期間で、大学へは行く必要がないということで家にいた。ランダは、9歳になる一人娘の母親だが、日本語が上手なので、ガイドの仕事をやっていた。

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オートバイの旅(21)USA-1976/10/26 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(21)USA-1976/10/26

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1976/10/26   パンク修理
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 朝5時に起きて、キャンプ場内の公衆電話から日本の実家へ電話をする。
 コインを入れずにダイヤルのゼロを回すと、町のオペレーターが出る。そして州都のデンバーの電話局につながる。そこから東京につながる。そして大阪の実家につながる仕組みだ。日本の交換手が私の名前とコレクトコールであることを確かめる。その時の交換手の日本語は美しかった。3分以内に電話を切るつもりだったので、伝えることを要約していたのだが、話が始まると、家族全員が出て、5分以上になってしまった。
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 アリゾナ州は牛や馬が多い。柵がないので、よくハイウェイの上をうろついている。US160号線を進んでいるとき、足をしばられた馬がハイウェイの上で立ち止まっている。ホーンを鳴らしても足を見ているだけだ。さらに近づくと、あわてて、うさぎ跳びのような格好で逃げて行った。
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 もっと怖いのが牛だ。鈍いのか、近眼なのか、バイクが近づいても気づくのが遅い。そして、びっくりして、それぞれ勝手な方向へ逃げまどう。ばかなやつは、バイクに向かって突進してくる。
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 アリゾナ、ニューメキシコ、コロラド、ユタ州が交わるポイントに向かっているとき、舗装工事現場にぶつかった。アスファルトが跳ねて閉口する。後輪が左右によろめく。パンクだ。下り坂でのパンク修理はやりにくい。その横を工事のダンプトラックが行ったり来たりする。原因はコーラの蓋のリングだった。修理に1時間もかかってしまった。
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 アメリカも南部まで来ると、ロードサイドはゴミでいっぱいだ。ハイウェイに沿って缶やビンが切れ目なく転がっている。

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1976/10/27     奇怪な岩肌
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 朝の寒さは、ますます厳しくなった。50キロも進むと、手足が痛くて我慢できない。羽毛の手袋も限界で、寒さに勝てず親指が痛む。足をエンジンケースに置いてみた。少しは熱が伝わってくるようだ。あごも風が当たりキリキリ痛む。足が千切れそうになって、こらえきれずにカフェーに飛び込む。
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 ユタ州にあるレッドキャニオンは、名前のとおり、道路も崖も真っ赤だった。まだ、キャンプするには早いので、プライスキャニオンへ行く。標高3000メートルのレインボウポイントでは、風化によってできた奇怪な岩肌が見られた。人間が無数に立っているように見える。

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1976/10/29    セルフサービス
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 今朝はさらに寒い。寒暖計はマイナス10度を示していた。昨夜は登山用靴下2枚、パッチ、皮ズボン、オーバーズボン、上は肌着、登山用シャツ、セーター、ヤッケ、革ジャンパー、雨合羽2枚を着て、寝袋の中で寝たので凍え死ぬことはなかった。
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 US89号線を30分も南下すると、足の指の感覚がなくなった。カフェーに飛び込み、コーヒーを注文する。足が震え、手の感覚もおかしいので、カップが上手く持てない。女主人が湯の中に手を入れて暖めたらどうだと言ってくれた。助かった。
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 ラスベガスに近い。ある町のスーパーのパーキング場に入ると、50歳ぐらいの婦人から「英語、わかりますか?」と声を掛けられた。その婦人の子供が日本へ行っているので、私に興味を持ったらしく、家へ招かれた。
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 家には男の子が3人、女の子が4人いた。まことににぎやかな家だ。他にまだ3人の男の子がいるという。上の男の子たちは忙しくて、私の話し相手はもっぱら11歳の双子の女の子だった。昼になって子供たち7人の食事が始まった。すべてセルフサービスだ。居間に小さなテーブルを並べ、それぞれが皿とカップを持って台所に並んで盛り付けてもらう。まるで学校給食だ。
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1976/10/31    双子の女の子
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 日曜日、父親と子供たちは教会へ出かけた。私も一緒にどうだと誘われたが、着ていくような服がなかったので辞退する。
 ご主人はコンピュータのプログラムの仕事をしていて、週給は350ドル。趣味はハンティングで、昨夜は鹿肉をごちそうになった。夫人はよくこえた人で日本でいう肝っ玉母ちゃんである。子供の世話で、休む暇もないようだ。10人の子供を育てるのは大変でしょうと聞いたら、「それが私の仕事ですよ」と返ってきた。そんなお母さんが更にもう一人の子供、私を拾ってくれた。
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 長男と次男はブラジルで教会の仕事をしているといる。21歳と20歳だ。3男は19歳で、やはり北海道の岩見沢で教会の仕事をしている。4男は大学1年生で電気を専攻していっる。5男は高校生でフットボールのメンバーだ。6番目は高校生の長女。一番おませでニキビで悩んでいた。7番目が中学生で野球のうまい6男だ。たくさんのトロフィーを持っている。夕方には新聞少年に変身する。早く高校生になって、フットボールをやるのが夢だ。彼が私にベッドを貸してくれて、彼は居間の長椅子に寝ていた。
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 8.9番目が双子の女の子で、11歳だ。とてもよく似ている。おとなしくて優しい子たちだ。10番目の末娘は、双子の姉たちより背が高く口が達者で、10歳だが、よく私の世話をしてくれた。
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1976/10/31      未亡人
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 すでにご主人のビルは会社へ行き、7人の子供たちがが学校へ行くために忙しく動き回っている。洗濯も自分でやるらしい、洗濯機に衣類をほおりこんでスイッチを入れている。朝食もそれぞれで準備して、忙しく食べている。家族全員の写真を撮ろうと思ったら、大学生の息子が時間だと言って出て行った。しかし、ほどなく戻ってきて写真を撮ってくれという。私の気持ちを察してくれたようだ。いい子供たちだ。
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 160キロ先のラスベガスで、ご主人のビルの会社をたずねて、彼の下宿先に泊まることになった。家主は未亡人のおばあちゃんで、いい話相手ができたとばかりに大歓迎だ。たっぷりと話し相手をさせられ、ラスベガスの町を見て回る時間が無くなってしまった。

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オートバイの旅(20)-1976/10/18 USA [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(20)-1976/10/18 USA

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1976/10/18           ハイウェイ60号線
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 真っ赤な夜明けの空を見ながらロッキー山脈を上り下りする。バイクは非常に好調になった。6速のギアーでどんどん登っていく。コーヒーを飲もうと思うが、どの店も窓が小さい。店の中からバイクの見張りができそうにない。
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 ある店に入った。コーヒーの味もメキシコ風になって強い。暑さに勝つために必要なのだろうか。あるいは水は悪いのかもしれない。出された水はすごい味がした。
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 ここアリゾナも、あまり裕福ではないらしい。モービルハウスという家が非常に普及している。トレーラ式のキャンピングカーの超大型で、いわば車輪のついている家だ。町の周囲にはその家の村がある。そこはキャンプ場で、土地付きの家が持てない人達が住んでいるのだ。そういうキャンプピングカーの中で生まれ、育つ子供も増えているようだ。なかには一生を車の中で過ごす人もいるのかもしれない。
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 グローベの町からフェニックスまでUSハイウェイ60号線を下っていく。赤い岩に切り立った崖や地底旅行をするような奇怪な風景が次々と現れる。大きなサボテンも出現し始めた。カナダの森林地帯を思い出すと、まるでウソのように景観ががらりと変わった。
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 フェニックスでは、大学の先輩の家に滞在する。きれいなアパートで、私が触るものすべてが汚れてしまいそうだ。汚い私の荷物など置くところがない。
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1976/10/19    先輩の家
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 先輩の家に3日ほど滞在することにして、バイクの整備をする。9時から3時ごろまで、アパートの人たちと話しながらピストン、リング、ベアリングの交換をする。
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 夜は、このアパートの共同施設を見て回った。プールが2か所と、ジェットノズルから空気を噴き出している温水プールもあった。さらにビリヤード2台と卓球台もある。そして床に寝そべってテレビを見る部屋があった。

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1976/10/20    天気予報
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 これから先の連絡方法、フィルムや手紙の輸送方法、パーツの補給の方法を考えた。ミッションオイルの交換、クラッチ版の点検をする。整備計画書通りに4万キロ時点の整備をした。
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 荷物の量を減らしたいが、今の時点では、まだ何も捨てる勇気がない。しかし、このままでは南米やアフリカの旅はできそうにない。捨てるとすれば、スペアーの手袋、雨合羽、フィルム、薬、地図、ガイドブックぐらいだ。
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 スペアーパーツは登山用のザックに詰めて背負っていたが、あまりにも重かったので、糸が切れてしまった。釣り糸で修理する。
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 夜、テレビの天気予報は、明日から天気がくずれることを報じていた。北から冷たい高気圧が南下して、アメリカ全土を覆いつくしている。北部では雪が降り出し、5大湖周辺はマイナス気温になったという。アリゾナ周辺以外の地域は、最低気温がすべてマイナスになった。

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1976/10/21    作業用チョッキ 
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 天気予報とおり、雨が降り出して寒くなった。出発を一日延長する。
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 手紙を書き、ビザの取得計画を考え、パーツのチェックリストを作る。走行中の旅の安全を考えて、スーパーで反射テープ付きの道路作業用チョッキを買う。バイクの後ろに貼り付けて、後方の車が確認しやすいようにした。
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1976/10/22    雨合羽の修理
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 先輩は8時前に仕事へ出かけて行った。私も9時には部屋を片づけて出発。実家から送られてきた荷物が増えて、バイクはずっしりと重い。これから先の旅の長さを感じる。フェニックスを離れると、すぐに雨が降り始め、気温も急激に下がった。
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 17号線を北上して、オークキャニオンへ行ってみる。大自然の浸食作用による、想像を絶する造形に目を見張った。
 フラグスタッフの町を通過して、その先のカイバブ湖キャンプ場へ行ってみると、その上空だけに雨雲があり、雨の中でテントを張ることになった。バイクの整備を中止して、テントの中でズボンと雨合羽の修理をする。
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1976/10/23    グランドキャニオン
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 雨の中をグランドキャニオンに向かった。64号線を北上する。大平原をバイクは好調に走った。
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 グランドキャニオン村に着くと、雨がやんで陽が照り始める。その村のガススタンドはセルフサービスで、トイレも水も有料だった。
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 女主人は親切だった。私が店の横で休んでいると、トイレの合鍵をわざわざ持ってきて手渡した。私の汚い顔を見かねて、洗えと言っているようだった。横のレストランで雨合羽を着たまま日誌を書きだしたが、靴が濡れているので、寒さのため足がガタガタ震えた。
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 公園を歩いていくと、道路の真中にゲートがあり、入園料2ドルを取られた。(あーあーもったいない。)しばらく進むとキャニオンのリム(縁)の見晴らし台に着いた。パーキング場は、どこから集まってきたのか、キャンピングカーでいっぱいだ。キャニオンの北側は雪がちらついているのに、驚くぐらいの旅行者の数だ。
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 リムに沿って西側の道路の端まで行ってみる。のぞき見台があり、いろいろな角度から谷の内側をのぞくことができる。ニューメキシコ、アリゾナの大きな荒野の自然を見てきた私にとっては、それほど感動的なものではなかった。できれば、もっと自然な形で見たかった。入園料を払って展望台からのぞくなんて、どこかおかしい。
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 アメリカの大陸の美しさは、複雑な構成のものではなく、単純な構成の美しさであり、規模の大きさによる驚異の美しさのようだ。
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1976/10/24
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 朝の気温はマイナス2度。東へ向いて進むので、朝日がまぶしい。大平原を進むと、ハイウェイに沿って並ぶ掘っ立て小屋でインディアの子供たちがヘアベルトやネックレスを売っている。一本も樹木のない土地だ。彼らの家はハイウェイからは見当たらない。
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 アリゾナ州道264号線を走りながら、映画「バニッシングポイント」の舞台を思い出す。そんな感じの土地だ。大平原に突然上り坂が現れる。
登り切るとまた、遮るものがない地平線が続く。断層を超えたのだ。
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 セカンドメサという小さな村の店で、背後から「バイクの調子はどうですか。」と突然声を掛けられた。インディアンの研究をしているという日本人だった。その周辺のインディアンの部落を教えられ、ぜひ行くようにと勧められた。そのあたりも、また一本の樹木もないところだ。
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 ケーンズキャンプの町に3時前に到着して、町はずれにある無料キャンプ場を見つけた。昔からのインディアンの町らしく、谷の中にあった。日本の谷とは違って、大平原にできた谷だ。ものすごく広いもので、その中に小さな川が流れている

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オートバイの旅(19)-1976/10/11 USA [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(19)-1976/10/11 USA

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1976/10/11    小さな郵便局
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 一気にアーカンソー州のリトルロックまでやってきた。だんだん暖かくなる。この後、オクラホマ州、テキサス州、ニューメキシコ州と進むにつれ、天気が良くなり、暑くなる。寒いより暑い方がよい。
 地図を見るとあちこちに公園やピクニックエリアがある。今日は簡単に寝場所が見つかりそうだ。
 ハイウェイを走る車もほとんどない。起伏の激しい道を飛ばしていると、少しへこんだ反対車線のところにポリスカーが駐車していた。その前を100キロ以上で通過していく。バックミラーをのぞいたら、車は砂ほこりをあげて、Uターンし、追っかけてくる。ポリスカーは、私がすぐにスピードを落としたので、追い越してそのまま行ってしまった。(助かった。)
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 良いキャンプ地が見つかった。湖畔のピクニックエリアで、誰もいない。キャンプ禁止の立て札もない。素晴らしい場所だ。
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 夜は非常に静かだ。あまりにも静かすぎて、紅葉した葉の落ちる音に驚く。空き缶の中に落としたタバコの吸い殻がコーンと大きな音をたてて響く。
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 100キロの距離を1時間半ぐらいかけて、オクラホマにはいった。
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 ブロッケンボーンの町で日誌をフィルムを実家へ送ることにした。小さな郵便局へ持っていくと、男はそこにあるテープで巻けという。巻いて持っていくと、今度は税関申告書を書けという。
 申告するようなものはないというのに書けという。<たくさんの手紙と使用フィルム>と書いた。価格のところは何も書かなかった。男はしつこく値段はいくらだと聞く。
 私は手紙とフィルムだけだと言い張った。男は勝手にフィルム1ドルと書いた。それから手紙はいくらだという。私は「手紙だよ。値段なんかないよ。」という。男は勝手にしろとこちらに投げた。私は彼の方へ押し返すと、男は1ドルだという。私もやけくそになって、「そうだよ。」と怒鳴る。
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 彼は、用紙のすべてを記入しなくてはいられない男なのだろう。ゼロ以上の数字でなくてはいけない。だから、1ドルだ。料金も3ドル80セントで、今までより非常に高い料金だった。たぶん地球を一周してから日本へ着くのだろう。
 (その後、実家から私のところへ来た手紙には、日本の税関で課税されたことが書かれていた。)
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1976/10/13    ガラスの割れた窓
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 靄が幾筋にもなって漂っている牧草地を進むのは快適だ。
 アドモアの町を過ぎると、赤い地肌が見える。やがて放牧地になった。牧草以外は育たないような土地だ。茶色の牛がまばらに草を食べている。そんな牧場の中に油田ポンプのヤグラがあちこちに見える。やっぱりオクラホマだ。
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 グランドフィールドの小さな町でガスを補給する。2つあるスタンドアイランドのうち、1つは「セルフサービス」とある。店員がいれるのか、自分で入れるかの違いだ。
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 ダビッドソンの小さな町からレッドリバーを渡り、テキサス州にはいった。クロウェルの町を過ぎると、あの西部の大平原が現れた。枯れ草が点々と生えているだけだ。低い山が遠くの方にかすかに見える。半砂漠の世界だ。
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 レストエリアでキャンプすることにしたが、昼過ぎの太陽はまだ非常に厳しく、日陰を求めてキャンプするようになった。
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 チェーンが非常に痛んだので交換。エンジン側の歯車も緩んでいた。2リットルの水が残り少なくなっていたので、近くの農場へ行ってみた。誰もいない。他に2軒ほど回ってみたが、捨てられた農場だった。ガラスの割れた窓、はがれた板壁、錆びた農機具に、この土地の厳しさを知った。

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1976/10/13   荒野
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 7時になってもまだ真っ暗だ。本当に夜明けが遅くなった。ここから20キロ先のニューメキシコ州にはいれば、マウンテンタイムになり、1時間遅くなる。
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 日本から非常にたくさんのパーツを持ってきていたが、チェーンを新しいものに取り換えて以来、これからの旅先での必要になるパーツが心配になってきた。予想以上にパーツが必要になりそうだ。アメリカを出てから、ヨーロッパに着くまでパーツの補給ができないと考えた方がよい。例外としてベネズエラでは補給できそうだが、非常に高いらしい。
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 これから先の行程は、旅費の問題ではなくて、どれだけパーツを持っていくかだ。必要なパーツがなくなった時が旅の終わりだ。消耗パーツをどんなふうにして補給するかだ。タイヤ、チェーン、歯車は1万5千キロでだめになる。だから、チェーンが伸びないようにと、90キロ以下のスピードを保ち、ローギアでは回転を上げないように努めた。
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 ロスウェルの町まで荒野を進んだ。この町を過ぎてルイドンへの道は、谷の中を登っていった。禿山が続くが、谷の中だけは果樹の緑で覆われていた。リンゴを売る店が並んでいる。禿山の続く中に自然林が一部残されていて国立公園になっている。松の木が茂っているのが不思議な感じだ。
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 この禿山地帯に入ってから、民家の構造や素材が変わってきた。北東部アメリカの板壁に家が、ここではレンガと土の壁だ。形も非常に単純で、長方形で切妻屋根だ。色も白一色。北東部のように赤、黄色、白色などで塗った色鮮やかな家はない。
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 生活が裕福でないことは、ガススタンドでもわかる。ポンプが非常に古く、手動ポンプであることもあった。
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1976/10/16   入場料
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 ホワイトサンド自然公園へ行く。白い砂の砂漠が広がる。入場料が1ドルもしたので入らなかった。私にとって地球全体が公園のようなものだ。わざわざ点のような小さな公園・・・柵の中にはいる必要はない。

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1976/10/17   ニューメキシコ州
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 昨夜はシーズンオフで無料になったキャンプ場でテントを張った。そして、今朝、トイレへ行ったところ、その中にシャワー室があったので、ためしにコックをひねったら、熱い湯が出るではないか。朝風呂を浴びて、いい気分で出発する。
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 北部を旅行していた連中が、南へ下ってきたらしく、バイクの旅行者たちとよく出会うようになった。
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 シルバーシティを過ぎ、大きな銅の露天掘りの現場を見ながら、ロッキー山脈を超えて行った。素晴らしい景色だ。日本的なきめの細かい美しさではなくて、けた違いのスケールの大きな美しさだ。
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 ほとんどが半砂漠の乾燥した土地のニューメキシコ州では、樹木のあるところは森林公園になっていた。

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