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オートバイの旅(50)Pakistan-1978/11/30 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(50)Pakistan-1978/11/30

 

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1978/11/30          大きな菩提樹の下
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 パキスタンはイランとは違て人々は非常に親切だ。国境の役人は手続きを親切に教えてくれた。さらに税関事務所はここから100キロ先だとか、両替はその角の家でやっているとか・・・。私のパキスタンの第一印象は最高だ。
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 ところが、東へ行くにしたがって、衛生状態が悪くなっていった。町の食堂は汚く、ハエの大群には全く閉口した。風習も変わり、ミルクティーは、ポットに入れて出されたが、茶とミルクの割合は1対2ぐらいで、汚れた瀬戸物の茶碗で飲む味はダメだった。
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 国境から、延々と砂漠の道が続いた。あちこちに雨季の被害が残っていた。道は半分も削られ、橋も流されていた。とても雨季には通れそうにない。
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 荒涼とした道を500キロほど進んで、クエッタの手前の町ヌシュキに到着。オアシスの町で、緑があって、人間がいる。砂漠の中の道を進んでいるときは、本当に緑や人間が恋しくなる。ここからクエッタまでは急勾配の坂が続き、バイクはあえいだ。気温がどんどん下がり、また、羽毛の手袋をはめる。
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 クエッタは、ある程度の規模の町で、活気もあった。たくさんのアクセサリーを飾りつけたオート三輪のタクシーが忙しそうに走り回っている。

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 銀行へ行ったところ、店長に奥に来るようにと誘われて、ミルクティーをご馳走になる。その時に両替を頼んでおいたら、ミルクティーを飲み終える頃に、両替されたお金が私の手元まで届けられた。この銀行のサービスは他の支店でも同じだった。
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 パキスタンに入ってからは、イランで見た丸型やわらじ型のパンがなくなり、代わってチャパティが登場した。これは冷えてしまうとまずい。食堂の飯が安いので、旅に出て、初めて毎日食堂で食事をするようになった。カレー粉で煮た野菜やジャガイモをチャパティでつかんで食べるのはうまい。
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 パキスタンの人たちは、本当に親切で、私は、ほとんど毎日食事代を使うことがなかった。食堂へ行き、料理の鍋などを覗いていると、店主が出てきて「まあ。ここに座れ。」といって注文もしていない料理を食べさせてくれるのだ。もちろん、店主のおごりで、食後はミルクティを出され、更にハッシシまで勧められた。
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 町の人たちも気軽に食堂や家庭に誘ってくれた。ポリスも私のバイクを見つけると、ストップをかけ、ミルクティーを飲もうと誘ってくれるのである。
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 クエッタからインダス川を南下するにつれて、緑が多くなった。そして、インダス川のすぐそばまで来ると、大規模な灌漑のため、家のあるところと道路以外は、ほぼ水の中だった。この時はキャンプするところを見つけるのに困った。どの家にも庭らしいものは見当たらない。
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 早朝、このインダス川周辺は、もやがかかり、その中を牛車がゴトゴトと畑へ向かう情景は感動的だ。緑は本当に素晴らしい。日本の自然が、いかに恵まれているかをつくづく感じた。
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 景色はいいのだが、牛車の渋滞には閉口する。そして、道路は牛糞だらけなのだ。何もかも結構という訳にはいかない。

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 コレラで有名になったカラチに到着。絶対に生水は飲まないと思っていたが、食堂に入ってみると、誰もがコップの水をうまそうに飲んでいるし、あのカレー料理を食べた後は、水がぜひとも欲しいものだ。思い切って私もガブガブ飲んだ。
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 カラチの町は、これまでのパキスタンのイメージを変えるほど良かった。
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 インドの旅に備えて、ヤマハの作業場を使わせてもらって、バイクの整備をした。洗車をメカニック見習の青年に任せたら2時間もかかった。私は半日で終えるつもりだったので、自分でやることにしたが、皆が見守っているし、彼らの技量を疑うのも悪いと思って手伝ってもらう。マフラー、シリンダー、ピストンなどを外して、カーボンの掃除をし、更にクラッチ版、リードバルブの点検をした。1時を過ぎるとメカニックたちが帰り始めた。考えてみると、この日は木曜日で、イスラム社会では土曜日に当たることを忘れていた。日本の技術者から修理を習たという青年が残って手伝ってくれた。
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 スロットルケーブルを交換して作業が終わると、メカニックの青年2人が食事に誘ってくれるのでレストランへ出かける。店内が大理石張りの豪勢なところだった。彼らが私より安いものを注文したところを見ると、すこし、無理をして歓迎してくれているようにみえた。
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 ヤマハの隣にある専門学校の経営者に話しかけられ、学校の宿直室に泊まることになった。彼の家に行くと、子供が7人もいる。夕食は、まず主人と大学生と高校生の男の子の4人で、次に小さい弟たちがテーブルに着いた。女性は男の前では食事ができないのか、姿を見せなかった。
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 子供たちはあまり口を聞かず、静かに過ぎた。私が話しかけてもあまり話さない。パキスタンの上流家庭のしつけなのかもしれない。
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 カラチからインダス川に沿って北上し、ペシャワールへ向かう。

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 沿道の飯屋には、ベッドのような網椅子が並んでいる。その上に座って休んでいると、店の親父がミルクティでもどうだと、出してくれる。
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 キャンプをするために道路端の民家へ交渉にいくと、そこの親父が英語で対応し、自分の家に来いという。ついて行くと、そこは墓地のようだった。大きな菩提樹の下が祭壇になっていた。主人がそこに座り、私をすぐそばに座らせた。他の人たちも囲炉裏を囲んで座り、ミルクティーを飲み、そして、ハッシシが回された。
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 そこはどうやら新興宗教の集会場のようだった。広場には幟が上がり、銀紙が張り巡らされていた。変なところにもぐり込んでしまったようだが、面白そうだったので、そのまま居座り、夜遅くまで祭壇の前で、ゴロゴロして過ごした。
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 インダス川周辺は水蒸気が多いようで、朝起きると霧でテントが濡れている。川が一本あるだけで、今までの砂漠地帯の気候がこんなに変化するものかと驚いた。
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 パキスタンでは、民家の庭でキャンプすると、夕食と朝食が出された。また、食堂へ行くと店主や客がおごってくれた。非常に嬉しかった。しかし、一方で、プライバシーなんていうものはないようで、自分のすべてを公開しなくてはならない。時どき、やりきれなくなることがある。

 人々は朝が早い。私がそろそろ起きようかと思っていると、「いつまで寝ているんだ。」といってテントをめくる。私が叱ると、今度はテントの空気穴から覗く。やめろといっても平気だ。この国で、ひとりで落ち着けるところは、テントの中だけと思っていたのに、どこもない。キャンプをさせてもらて、食事を提供されて、こんなことは言える立場ではないが、早く逃げ出したい気持ちになった。挨拶もそこそこに出発する。
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 この日も私の機嫌は悪かった。食堂に入ると、またいろいろな連中が話しかけてくる。返事をするのも億劫だ。最初の頃はヨーロッパと違って、だれも彼もが話しかけてくるのが嬉しかった。でも毎回「なんていう名前だ。どこから来た。」の連続で、その対応に疲れた。
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 もう異国の風土、人間、文化・・・あらゆるものと衝突するのに疲れたのかもしれない。今までは、それぞれの国の人たちとうまくやってきたつもりだったが、もう限界に来たのだろう。肉体の疲れと同時に、精神的にもカルチャショックが積み重なって破綻しかかっているのだろうか。・・・「異国」に疲れた。
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 昼、食堂に入る。バイクを触るなといっても触る。道路を走っていると、トラックやバスが追い越してきて急に前に割り込む。子供が目の前に飛びだす。トラクターが農道から急に飛び出す。こんなことは、いつものことで慣れてしまっているはずなのに、いちいちカンに触るのだ。「この交通ルールも知らないバカたれども・・。」と叫びたくなる。
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 食堂で、むしゃくしゃしている私に、気の弱そうな若者が「何か飲まないか」と話しかけてきた。その前に私が食べた分まで払っていた。英語が話せる若者だったので、話をしているうちに、気分が少しずつ、ほぐれていった。
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 ムルタンの町の手前で、事務所のような建物があったので、その裏でキャンプさせてもらうことにした。事務所のようなところだから、変な男もガキもいない。事務所の人からミルクティーをご馳走になった。
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 今夜こそは人に悩まされることもなく、落ち着くことができると思った。ところが彼から今夜映画を見に行くから一緒にどうだと誘われた。OKしたのが間違いのもとだった。結局は彼の家で泊まることになり、その家に着くと、近所の大人ばかりか、子供までがぞろぞろやってきた。今夜も疲れるぞと思った。
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 彼はその辺りの地主のようで、皆が挨拶をしている。風呂に入れと言われ、畑の中へついていくと、大きな灌漑用の井戸ポンプ場があった。その大きな水槽に入れという。冗談じゃない。こんな畑の中で、裸になれるかと思った。
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 家に帰ると、私が寝る部屋には大勢の人がぎっしりと集まっていた。そして、私が何かしゃべるのを待っている。ほとんどの人が英語を知らないし、ただ黙って私を凝視するする人たちに何をしゃべれというのだ。食事が出た。米の飯と塩辛のようなものに、ジャガイモと大根の輪切りだった。
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 食後、英語のできる人が来た。獣医だというその青年は、「なんで、そんな怖い顔をしているんだ。」という。そんなこと答えられるか。こんな狭い部屋に変な奴がいっぱい集まって、じろじろと人のことを眺めては勝手にガヤガヤやっているんだ。
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 「疲れているんだ。そろそろ寝かしてくれ。」と言いたいのだが、こちらは親切なもてなしを受けている身だ。観念して旅行中の写真などを見せて、時間をつぶした。その写真はアフリカの村とか風景ばかりで、アメリカやヨーロッパのモダンな写真はなかった。村人はあまり興味がなさそうだったが、それでも熱心に見ていた。

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オートバイの旅(49)Torkey-1978/11/08  [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(49)Torkey-1978/11/08

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1978/11/08        イラン国境
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 朝、8時になって、やっと明るくなった。朝からアンカラへ向かう幹線道路は車でいっぱいだ。アダパザンの大きな町で買い物をする。オリーブの漬物がフランスパンによく合うので買ってみた。100グラム、10円ぐらいだ。アルジェリアの病院ではほとんど食べなかたが、だんだんとその味が分かってきた。砂糖とマーガリン、タバコを買ったが、わずか1ドルちょっとだった。
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 10時過ぎに町を離れて、アンカラへ向かった。だんだん山道となり、低地では、ほとんど樹木を見なかったが、山が深くなると意外と樹木がある。松もよく見た。しかし、寒い。そんな寒い峠の頂上で昼食にする。オリーブの漬物とまだ少し温かいパンだ。水なしでもどんどん食べられた。オリーブの実は黒いが、梅干しのような感じだ。その渋みと塩加減がうまかった。ギリシャ、トルコの食料品店には、漬物がたくさん並んでいる。
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 ガイドブックの写真などで、トルコは暑い国だという先入観を抱いていたが、冬のトルコは寒い。遠くの山の頂は、すでに雪をかぶっている。
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 夜中に目が覚めた。足が冷たくて、眠れなくなった。テントの内側の薄っすらと氷が張っている。もちろん水筒の水は凍っていた。
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 アンカラでもイラク大使館へ行き、再度ビザのことを聞いてみた。やはり、1か月以上は待たなくてはいけないと言われ諦めた。
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 アンカラでは、樹木というものがなくなってしまった。緩やかな起伏が続くが、その景観は砂漠と変わらない。小さな町でも砂ほこりが舞い上がっていた。
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 次の町で買い物をしたら、パンクしてしまった。町の中だから、子供がぞろぞろ群がってくる。見世物だ。やがて大人も集まってきた。なんとか修理して、タバコを一服する。子供はよく観察しているのだ。あんな安物のタバコを吸っていると誰となく告げたのだろう。一人の青年が「これ吸いなよ。」と高そうなタバコを勧めてくれた。
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 写真を撮ってやろうとしたら、大騒ぎになり、バイクが見えなくなるぐらいに、ぎっしりと並んでしまった。

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 それから100キロばかり進んで、幹線道路から逸れたところでキャンプした。しばらくすると牧童がやってきて、まずタバコをくれという。もちろんやらない。そのうち私の荷物を物色し始めた。そして、ザックにぶら下げてあった小さなカウベルを見つけた。ひどく気に入ったらしい。今度は、その牧童の父親らしい男が現れて、そのベルをくれという。もうそのしつこいことに飽きれた。くれくれと迫るのだ。そのうち、テントに火をつけてもよいのかとその真似をして脅すのだ。私も腹が立たので、とうとうその親父の胸蔵をつかんで、怒鳴ってしまった。欲しくなったものは、どうやっても手に入れるだ、という考えにぞっとした。
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 翌朝、凍ったテントを片づけていると、一人の男が汗をかきながら飛んできた。なぜだか分からないが怒鳴っている。言葉が通じないので適当にやり合っていると、また別の二人の男がやってきたて、3人でわめき始めた。この近くで、羊かなんかの家畜が殺されたらしい。ついて来いという。その羊飼いの馬鹿どもは羊が殺されて、誰でもよいから犯人を仕立てたいらしい。たまたま、私が近くでキャンプしていたものだから、私を犯人にした。その現場を見せて白状させるつもりらしい。私が羊1頭を殺して、焼いて食べたとでもいうのか。
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 「よし、ついて行ってやろうじゃないか。」といって一歩踏み出すと、私の顔つきに驚いたのか、。「もういい。行って良い」という仕草をする。何が行って良いだと、最初の男に詰め寄ると、やはり羊飼いだ。すぐに石をつかむ。腹が立って仕方がなかったので、胸蔵をつかむと3人がかりで私を押し倒そうとする。3人を相手に喧嘩をする自信はなかったが、私が180センチ以上の大男で、汚い革ジャンパーを着ているので、彼らはにらむだけで、それ以上は手を出さなかった。
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 それにしても恐ろしい。もし、私がか弱い男だったら、半殺しになっていただろう。昔の閉鎖された田舎では、こんなふうにして、よそ者が殺されたのではないか。彼らは自分たちの村の人間など疑う前に、よそ者を疑う。たぶん羊を殺したのは隣近所の連中に決まっているはずだ。・・牧童の民の野蛮さを思い知らされた。
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 次の日もパンクにあってしまった。シバスの町では、バイクで旅行中のドイツ人の青年に助けを求められた。彼はエンジンがかからなくて困っていた。引っ張てやるとエンジンはかかるが、キックだけではだめだった。彼は予定が同じなら、一緒に行かないかという。また、安いホテルを知っているけど、一緒にどうだという。困っている若者をそのままにもできないので、しばらく行動を共にすることにした。
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 エンジンをかけるたびに、私のバイクで引っ張るのだ。私は、彼に同情して行動を共にするのだが、彼はそう思っていないらしい。たまたま私が同じコースなので、引っ張てくれていると思っているのだ。そんなことで、私はだんだん彼の態度が気にいらなくなった。
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 2000メートルを超す峠を3つも越えなくてはならない。雪と寒さが心配だった。霜で山々は真白になっていた。あまりの寒さに写真撮影もできない。

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 ドイツ青年マリは、オイル缶を落としたまま走っていったり、ガス欠になって私の予備ガソリンをやるなど、少々世話のやける道ずれだった。アスファルト舗装では、私は80キロのスピードで走るのだが、彼は飛ばしてどんどん先へ行った。そして、先の食堂で飯を食っている彼を見つけては、引っ張てエンジンをかけてやりながら進む始末だ。しかも、彼は悪路では極端にスピードが落ちた。たびたび私は、彼が追いついてくるのを待ってやった。彼が転倒したりしてエンジンを止めてしまったら、彼は困るだろうと思ったからだ。
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 2つの峠を越えて、良い道になったところで、ドイツ青年はどんどん先へ行ってしまた。私を待っているようなことはない。3回続けてパンクしたときは夕方になっていたので、そこでキャンプしてしまおうと思った。しかし、彼が心配するだろうし、私がいなくてはエンジンが掛けられないだろうと思って、薄暗くなった山中でパンクを直し先へ急いだ。いくら行っても彼の姿が見当たらない。予定のエルツルムの町の入り口に着いても彼がいない。彼に自分の気持ちが全く通じていないのにがっかりした。
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 もう夜も迫って、キャンプ場所を見つけるのも大変なので、町へ入った。ホテルの若者たちは、大歓迎してくれた。バイクを中庭に置くように勧め、すぐにストーブの火を強くしてくれた。そして、温かいミルクティーと彼らが食べていた食事を私に勧めてくれた。嬉しかった。
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 もう、マリ青年のことは忘れることにしようと思っていたところに、前の通りを聞き覚えのある独特の排気音が通過していくのを聞いたので、すぐに飛び出した。私がいなくては彼はエンジンをかけられないのだ。ホテルへ連れていくと、若者たちは彼を歓迎してくれた。
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 私たちの部屋に若者たちが遊びに来た。私はみんなでおしゃべりしようと思っていたのに、しばらくするとマリは、ここは俺たちの部屋だから、もう出て行ってくれと追い出してしまった。
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 翌朝、ホテルの若者たちは朝食を用意してくれた。マリも喜んで食べていたが、別にそれほど感謝しているふうでもない。出してくれたから食べてやっていると感じだ。彼は旅で知り合った者にいくら親切を受けても、その人たちの住所録を待たないという。見上げたものだ。私はホテルの若者からイスラム教の珠数をもらい、住所を交換し合って出発した。
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 山道にかかると、悪いガキどもが石や棒を持って待っていた。車やバイクに石をぶつけるのだ。マリは以前、この道を通ったことがあり、その時は窓ガラスをガキどもが投げた石で割られてしまったという。その時にガキどもを追いかけて捕まえたところ、村人に取り囲まれて、怖い思いをしたという。まるで無法地帯だ。ただ村の子供や村人を追い回す奴は、敵なんだ。
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 マリ青年の利己主義と行動はさらに目立ち、私はイラン国境を前にして、これ以上一緒に行動するのは嫌になっていた。一緒に走っているのに、彼はさっさと先へ行ってしまい、イラン国境に着いた時には彼の姿は見えなかった。すでに入国してしまったのかと思っていると、どこからか現れた。
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 その時、イランは革命が勃発して不安定だったが、幸い、私たちは時期がよくて、暴動も一段落していて国境は開いていた。入国手続きを終えたとき、すでに3時過ぎだった。彼は200キロ先のタブリッツの町まで行こうという。私は自分のペースを守るために、このマクの町に滞在することにしたが、彼は先へ行くというので、私たちは別れた。私はほっとした。肩の荷を下ろした気分だ。彼はトルコで私を捕まえたように、次の町でもすぐに別のバイク野郎を見つけられると考えたのかもしれない。
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 暗くなってから、ここの谷間の町に横殴りの雪が降り注いだ。彼は、ちゃんとタブリッツの町にたどり着いたのだろかと心配になった。
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 次の朝、町は雪で覆われていた。私は両足を出してノロノロ進んだ。タブリッツの100キロ手前でマリ青年を見つけた。雪の積もった道路端で、彼は牽引用の細いひもを持って震えながら立っていた。その姿は哀れだった。やはり昨夜の雪で進めなくなり、雪の中でキャンプしたという。もう一度、引っ張ってエンジンをかけてやる。
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 雪が降り続き、彼は遅れに遅れた。私は町に入ったところで待っていたが、いっこうにやってこない。エンジンが止まって困っているのではないかと心配になり、引き返した。なんと彼は町の入り口の食堂で、何かを懸命に食べているではないか。雪の吹き溜りを超えて、その店に入ると、彼は「パキスタンまで車で行く連中と親しくなったから、バイクも運んでもらうよ。」と私の心配をよそに、そんなことを言ってくれた。
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 もう、嫌だ。すぐに店を出て、一人で雪の降る道を出発した。あんな奴がバイク仲間だと思うと腹が立つ。
 (マリ青年はバイク野郎ではないのです。ただ、インドやパキスタンへイギリス製バイクを持ち込めば、おんぼろでも高く売れるという動機で、バイクに乗ていたのです。)
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 先の峠では雪のために車がスリップして進めず、仕方なく、引き返してホテルに入った。
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 翌朝は、雪がタイヤと泥除けの間に詰まって凍ってしまっていた。それを溶かして出発する。峠は、やはり車でごった返していた。その間を縫って、峠を越えた。
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 その雪も首都テヘランまで来るとなくなった。

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 テヘラン市内の交通渋滞は、日本どころではなかった。文字通り交通地獄で、バイクでさえ前へ進めなかった。ホテルに着いた私は、多くの韓国の人たちと知り合った。南部の石油基地から逃げてきた人たちだ。イランの暴動が完全な外人排斥運動になり、宿舎などに投石されて逃げてきたという。
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 一応、暴動は納まっていたが、市内のあちこちの銀行や劇場が焼かれていたのを見た。広場には戦車が横たわり、ガススタンドの屋根の上には機関銃が並んでいた。そのスタンドで、また、バイクが故障してしまった。私は機関銃が気になって。落ち着いて修理もできなかった。
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 ホテルにはイタリアのバイク野郎が泊まっていた。イタリア製のモトグッチに乗っていたが、ここまでの雪道で苦労したらしい。もう雪道を走るには御免だといい、この先のアフガニスタンは更に雪が深いからバイクを税関に置いていくと言っていた。しかし、それは考えものだ。こんな治安の不安定な国では、いくら国の機関である税関といっても、信用できるわけがない。ないよと言われたらそれきりだ。
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 私も雪が心配だったので、南部の砂漠地帯を通ってパキスタンへ直接入国するつもりだ。そのルートを彼に教えたが、悪路を行くのも嫌だというのでは仕方がない。そして2週間後にイラン政府は転覆した。彼のバイクはどうなった?。

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オートバイの旅(48)Yugoslavia-1978/10/11 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(48)Yugoslavia-1978/10/11

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1978/10/11   夜間学校
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 そろそろヨーロッパアルプスに雪が降るのではないかと心配して出発した。天気が予想外に良くて、思っていたよりもあっさりと峠を越えてしまった。同じスイス国内でも、アルプスの南側はまるでイタリアのようだった。アルプスを下るにつれ、また暖かくなった。
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 イタリアに入ってからは、物価が安くなったので、大きくて旨そうなソーセージをたっぷりと買い込み、昼飯時間が待ちきれなくて、道路端でパンと一緒にかぶりついた。
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 イタリアでは、ベネチアまで行ってみたが、観光地や名所は自分には関係がないと考え、素通りした。私の旅は名所を見て回るほど余裕はない。
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 早く、中近東へ行き、自由にキャンプしながら気ままに進みたい。ヨーロッパでは、自分の姿があまりにも汚いので、買い物するときも人の目を意識し、カフェなどには自由に入ることもできない。ヨーロッパの旅を続けるのが嫌になっていた。
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 ユーゴスラビアに入ると、町には国旗が掲げられ、労働者をたたえるような歌やマーチが流れており、社会主義国らしさをひしひしと感じた。でも若者たちは、はつらつとして明るく、私が想像していた社会主義国のイメージとは違っていた。
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 アフリカのカメルーンで知り合ったトモ君を訪ねた。彼の下宿に泊まったり、友人の大学の寮を泊まり歩いた。たくさんの学生たちと友人になった。みんないい若者たちだ。チトーを尊敬しており、自分の国の社会主義のあり方に自信を持っていた。彼らは小遣いを出し合って、町のレストランへ連れて行ってくれた。
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 ギリシャへ向かう途中、雨が降り続いた。道路わきの林の中でキャンプしながら雨が降りやむのを待っていた。道路の反対側に住む青年がやってきて、全く言葉が通じないのだが、うちへ来ないかという。あまり裕福でない農家だったが、温かい雰囲気の家庭だった。

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 顎の張った頑丈そうな母親と二人の息子、そして夫人に頭の上がらない人の好さそうなご主人の4人家族だった。
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 ほとんど言葉が通じないのに青年とは気が合って、5日間も滞在してしまった。そのミルティ青年の上衣とズボンと靴を借りて、毎日、町へ遊びに出かけた。ミルティは、女子を眺めて歩くのが好きな青年で、毎日が楽しくて仕方がないという感じだった。
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 夕食のときなど、私がひとり増えたので、皿が1枚足りなくなり、そのとばっちりを受けたのが親父さんで、ナベを皿代わりにして、食べていた。いい親父さんだった。
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 ユーゴスラビアのコーヒーの飲み方はちょっと変わっている。まず、非常に甘い砂糖漬けのフルーツとコップ1パイの水を出される。あまりにも甘いから、どうしても水が欲しくなる。その水で口の中を整える。つまり日本の茶道に似ている。それが終わってから、やっとコーヒーが出される。豆のカスがいっぱいのトルコ風のコーヒーだ。これはカスがカプの底に沈殿してから飲む。飲み終わった後は、そこにカスのたまったカップを受け皿にひっくり返しておく。しばらくしてカップに付着したカスをはがして食べたり、その付着の状態から自分の運勢を占う。
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 ミルティ青年が夜間学校へ行くので、私も付いて行った。教室は男より女の子が多く、どっちを向いても女の子だらけで、まばゆいばかり、授業前にミルティ青年は、教壇に上がって私を紹介した。すぐに仲間入りして、女の子からキャンディなどをもらう。
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 まず、物理の教授が現れ、ミルティが先生に私のことを伝えて、授業が始まった。60人くらいの学生は、みんな静かに聞いている。原子構造の話で、私も高校生の頃を思い出して、聞いていた。
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 1時間の授業が終わって、タバコタイム。男も女も一斉に教室の外でタバコを吸い始める。ユーゴスラビアでは、英語を話せる人がほとんどいない。学校ではロシア語を主にドイツ語、フランス語を教えていた。そんなことで誰も英語が話せないだろうと思っていたら、一人の女子学生が話しかけてくれた。親がイギリス人だということで、この学校のことをいろいろと教えてくれた。こちらの女性は、どいうわけかヒゲが濃い。少し変装すれば、すぐに男になれそう。その女性にもヒゲがあった。
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 その後の授業は政治と社会学だった。マルクス、エンゲルス、レーニン、毛沢東などの人物が次々登場した。
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 授業が終わった後、その先生の独演が始まり、学生たちはワイワイと騒いだ。
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 ミルティは有名な暴れん坊らしく、そのヒゲの女性は「オー。あのバカの家に泊まっているの。?」と大げさに驚いて見せた。なるほど、ミルティは活発で、授業中にもしばしば口を入れていた。

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1978/10/26   アクロポリス
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 ギリシャに入った。オリンポスの山のふもとで冷たい雨になった。雨の中を畑の中でキャンプした。翌朝、目を覚ますと、オリンポス山の上まで、真っ白になっていた。冬がどんどん近づいているようだ。早く、トルコ、イランを通過しなくてはならない。
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 ギリシャでは、アクロポリスを見つけた。町中のアクロポリスの遺跡は、あまり感動的ではなかった。
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1978/11/06   ロウソク
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 ギリシャ最後の町で、残りの金をすべて使い切った。ガソリン、パン、タバコ、ソーセージ、それにトイレットペーパーなどを大量に買い込んだ。イスラム系の国では、まず手に入らないと思った。
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 トルコ国境へ向かう。この日も北から冷たい風が吹いていた。高い山では雪が降っているはずだ。強い風にあおられて、フラフラしながら走った。
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 ギリシャ、トルコに出入国手続きは簡単に終わった。トルコでは税関がうるさいだろうと思っていたのだが、意外だった。もうヨーロッパとはお別れだ。中近東の国々は、かなり印象が違うだろうと想像して入国したが、トルコの景観はギリシャと同じようなものだった。アメリカとメキシコ国境のような変化はなかった。
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 100キロほど行くと町があった。別に買うものはなかったが、トルコの町の様子を見るつもりで、町に入った。ロウソクを暖房用に買う。町は静かなもので、予想以上に小ぎれいだった。ここはまだ小さいアジアなのだ。
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 また、少し走って、ガス補給。非常に安かった。35セントだ。50セントはするだろうと思って、両替をしていたのだ。また、トルコの金があまりそうなので心配になる。そのスタンドの店員たちは、ちょうど昼食中で、パンにオリーブの実と塩辛いチーズを食べていた。私も誘われて、ご馳走になる。もうすでに店内にはストーブが燃えていた。
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 トルコも森がない。今夜はどこで寝たらよいのだ。キャンプできそうなところを物色しながら走る。やっとちっぽけな松林を見つけたので、ここを逃したらもう無理だと思って、早めのキャンプをした。
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 だんだん夜明けが遅くなった。確かに東へ向かっていると実感する。
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 イスタンブールは大きな町だった。イラク領事館へ行ってみたが、ビザはもらえそうもなかった。シリア、イラクへ行くのはあきらめる。
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 町で買い物をして、アンカラへ向かた。ポラリス海峡の釣り橋を渡ると、もうアジアだ。ヨーロッパ側のトルコはギリシャより立派な家が建っていた。アジアトルコを走る。町中にイスラム寺院が目立つ。町は中近東らしく、だんだんにぎやかになり、いたるところで露天市が開かれていた。町には、工場地帯も広がり、なかなかキャンプ場所が見つからない。

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オートバイの旅(47)Spain-1978/06/08 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(47)Spain-1978/06/08

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1978/06/08   3000ドル
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 モロッコのスペイン領セウタからフェリーボートに乗る。まだ旅行シーズン前で乗客は半分くらいだ。スペインの入国は簡単に済んだ。足は直ったが、右手首はまだ痛い。
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 地中海沿岸に沿って走ることにする。別荘地や観光地が続き、おまけに雨の日も多くて、キャンプできる場所を探すのに骨を折った。
 何しろ、残金は3000ドル以下で、いくら計算してもオーストラリアまでの交通費しかない。とても有料キャンプ場などには行けない。
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 ヨーロッパ・・・ここでは旅行は生活の一部で、他人の旅行に対しては興味を示さない。北アフリカのように、ガソリンスタンドで係員が話しかけてくることはない。すこし、スペイン語を知っているのだが、ほとんど言葉を交わさない。言葉を忘れてしまいそうだ。ストアへ食料を買いに行っても、ただ、無言のまま金を払い、品物を受け取るだけだ。非常に寂しい。
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 首都マドリッドでは、アフリカのセネガルで会ったマイセルを訪ねた。歓迎してくれた。嬉しかった。彼もバイクでサハラ縦断を試みたが、途中で挫折してトラックに積んで越えてきた。
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 彼の家で1週間以上も世話になり、マドリッドの生活を楽しんむことができた。

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1978/06/22   パリ祭
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 ポルトガルに入国。スペインより素朴で親しみを感じさせる国だ。国のいたるところに松林があり、キャンプも容易だ。
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1978/06/30
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 小さな小さなアンドラ国。どんなに素敵な国だろうと期待して、雨の中を走って行ったのだが、観光客がいっぱいで、高級品店がずらりと並んだつまらない町だった。
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 げんなりして、そのまま走り抜け、その日の内にフランス国境を越えた。峠にはまだ残雪があり、非常に寒かった。キャンプできるところはなかなか見つからず、更に雨が降り出した。
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 パリに到着したときも雨だった。
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 アルジェリアで入院中にディスクが錆びてしまっていた。雨の中では全くブレーキが利かなくなってしまった。おそるおそる走る。あちこち走るうちに迷子になってしまい、どこにいるのか分からない。
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 交差点で、困っていると後ろの車から「ヨーゾー」と声を掛けられた。アフリカで会ったエリックだった。彼もバイク野郎で、サハラ越えを失敗している。
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  彼は、ずぶ濡れの私をカフェへ連れていき、ご馳走してくれた。両親が旅行へ出ていたので、泊めてもらうことになり、郊外の素敵な家に案内された。
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 スランスでは、後半の旅行にそなえて、バイクの大修理をやった。クランクシャフト、シリンダー、フロントフォークチューブ、リアクッションなどの交換だ。
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 ちょうどパリ祭の最中で、エリックは私を車に乗せて、パリのにぎやかなところへ連れて行ってくれた。エッフェル塔にも行ったが、登るお金がもったいないので、眺めるだけにした。ノートルダム寺院は素晴らしかった。花火大会と広場での演奏とダンスは非常に楽しかった。
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 もっと楽しかったのは、エリックの友達と会う時で、相手が女性だと、必ず両頬に2回ずつキスをした。素敵な娘がいた。ダンスもした。

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1978/07/20   ご馳走
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 フランスからイギリスに渡るのに約30ドルかかった。ロンドンでも、アメリカ旅行中にあった青年の家を訪ねた。1週間ほど厄介になり、バイクの整備をした。修理する箇所は際限がないぐらいだ。
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 スコットランドの北の端まで足を延ばした。ツンドラ地帯で、たえずカスミがかかっていた。海は荒れていた。とても寒かった。
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 ロンドンに戻り、今度はエリックの友人の家に泊めてもらた。結婚早々のカップルだったが、心から歓迎してくれた。彼女の最善のご馳走をたっぷりいただいた。食後にシェリー酒をいただき、私の胃袋はびっくり仰天。トイレへ飛び込んだ。みんな出してしまった。また、やってしまいました。私の胃袋は、パンだけでよいのです。少し、マーガリンがあればもう最高です。
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 いったんフランスに戻り、すぐにベルギー、オランダ、ドイツ、デンマークを経由して北欧へ向かった。
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 北欧ではさらに住民の感じは変わった。ほとんど言葉を交わすことがない。セルフサービスのガススタンドとスーパーマーケットに立ち寄るけれど、言葉を交わす機会がない。何かを訪ねても、英語を知らない人たちだから、ただ、黙って顔をそむけるだけだ。人がいるのに砂漠の中を旅しているようなさびしさを感じた。
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1978/08/29   台所
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 雨が降り続くフィンランドを北上して、ノルウエイに入る。
 北海を求めて、岬に出た。そこにあった漁港はひっそりと静まり、箱型の家が色鮮やかに美しく立ち並んでいた。荒い北海に面した道路は、波しぶきがぶち当たり、霧が陸に上がったり、海に戻ったりを繰り返していた。幻想的だ。この日の北海でのキャンプは、忘れられない。
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 ノルウエイを南下する途中、ヤマハYDS-3に乗った若者にあった。私が乗っているRD250の初期のモデルだ。ヤマハ仲間の気分で、すぐに親しくなり、家に招待された。きれいな家で、きれいな奥さんもいた。私は着替えのズボンもない。旅の姿のままで、革ズボンをはいたままだ。家が汚れそう。
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 彼はヘリコプターのパイロットで、ドイツ人の奥さんは「この人の話は、バイクとヘリコプターのことばかりよ。」とこぼしていた。
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 彼のバイクはエンジンが不調だった。滞在を少し延ばして修理してあげることにした。シリンダーヘッドのプラグ穴がつぶれていたが、それはまだ使えた。大きな原因はハイテンションコードが緩んで錆びていた。修理が完了すると、買った時よりもパワーが出たといって、大喜びしてくれた。
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 オランダのヤマハの作業場で、浅見貞男選手に会う。バイクの整備をしていた1週間の間、毎晩、彼の手料理をご馳走になった。以前にラーメン屋でアルバイトをしていたというから、味噌ラーメンの味は最高だった。
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 彼は1台の大きな車に3台のレーシングマシンを積んで、二人のメカニックとともにヨーロッパ中のレースを転戦しているサムライだ。
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 ヨーロッパでは、テントを張れる空地を見つけるのが大変だったが、ドイツだけは、いたるところに森があり、夜になっても、どこでキャンプするかなどと心配しなくても良かった。ただ、雨の日が多いのが悩みだった。
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 スイスでは、2年前にカナダの旅をしているときに会った老婦人を訪問した。あの時は、いつでも来てくれ、2.3日は滞在してくれと言われたが、台所に通され、1杯のコーヒーをご馳走になっただけで、部屋がないから泊めてあげられないと、やんわり断られた。考えてみると、私がスイスに到着したときの姿は、髪はぐしゃぐしゃで、顔はほこりとオイルで汚れ、着ているものはボロボロで、その衣類はオイルと泥がこびりついていた。悪臭もしたと思う。泊めてもらおうとした方がおかしいのだ。
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 私は、予定が外れてしまって困ったけど、部屋が汚れてしまうと夫人が心配したのも仕方がない。私を家の中に入れてくれただけでもありがたい。

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オートバイの旅(46)Argeria-1978/03/21 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(46)Argeria-1978/03/21

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1978/03/21         玉子ケーキ
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 朝、いつものように若者が洗面器とお湯を持ってきてくれた。そして、コーヒーを入れてくれた。
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 納屋の中に張ってあってテントを片づけ、納屋の外へバイクと荷物を出したところへ若者が戻ってきた。彼は私が今日出発することを理解していなかった。昨日、伝えたつもりでいたのだが、通じていなかった。
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 出発準備ができたところで、もう一人の男が玉子ケーキを持っち来てくれた。3人の男が集まった。若者はいつもと違い、落ち着かない。鼻をズーズーいわせていると思ったら、目に涙をためて、とうとう泣いてしまった。私も思わず鼻の奥がツーンとなった。しかし、バイクの別れはあっけない。走り出したら、振り向くこともできない。本当にありがとう。
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 アトラス山脈の南側をモロッコへ向かって走った。

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1978/03/24       羊の群れが
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 ブサダの町でキャンプしていた。道も良いので、この日は300キロぐらいは走ろうと、朝早く、テントを片づけた。荷物をバイクに乗せてから、後輪がパンクしているのに気が付いた。せっかく早起きしたのに、また荷物を降ろしてパンク修理だ。
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 9時過ぎに町で買い物して、アルジェの方向へ走り出した。町を出ると、向かい風でスピードが十分にでない。後ろから500メートルほど離れて付いてくるトラックが気になった。
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 町から20キロほど行ったところで、羊の群れが道路の両側で草を食べているのに出会った。いつもなら、バイクの音に驚いて逃げて行くのに動かない。向かい風で音が聞こえなかったらしい。群れのいる所へ来たとき、突然、群れの中に2匹が道路を横切った。
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 私はブレーキをかける瞬間もなかった。前輪タイヤの1~2メートル先に羊を見ただけだ。私は道路にたたきつけられた。仰向けになっていた。意識はあったが起き上がれない。ゴーグルの左目は割れたが、目は傷ついていないようだ。しかし、全身が激しく痛む。後ろからやってきたトラックの運転手が、ヘルメットを脱がせてくれようとするのだが、全身に激痛が走って、そのままにしてほしかった。ヘルメットを脱がされて、すぐにバイクを目で探した。すでに数台の車が集まていた。私を起こそうとするのだが、痛くてダメだ。先にバイクを起こしてくれと頼んだ。
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 私の耳に、かすかにうめき声が聞こえた。寝たまま後ろを見ると、羊が内臓をぶちまけて横たわっていた。私はすぐに目をそらした。80キロのスピードで羊と激突したのだ。
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 交通が渋滞してきたので、起こしてもらった。道路端にしゃがんだ。親切な若者が病院へ行こうと言ってくれた。やっと治りかけていた膝をまた打ってしまって、足も十分に曲がらない。バイクはサイドミラーがもぎ取れ、ヘッドランプはこなごなに壊れた。ハンドルも曲がり、羊がぶつかったバイクの泥除けには、血が付いていた。フロントフォークが少し後方に曲がっている。
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 バイクはトラックで運べばよいとか、誰かが運転していってやるよとか言ってくれたが、心配なので自分で運転することにした。グリップを握ると手首が猛烈に痛んだ。
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 病院でレントゲン写真をとると、右手首関節にひびが入っていると診断され、すぐに石こうで固定された。3日間の入院が許可された。医者から、2か月ぐらいしたら、またここへ戻ってくるように言われたが、手も足も不自由で、どこへ行けばよいのだろう。
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 この日は親切な女医のおかげで、個室に入ることができた。この静かな田舎の病院に変わった奴が来たものだから、看護婦や患者や見舞客がたえず覗きにきて、いろいろな食べ物を置いていってくれた。
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 夜、手首と両膝が腫れて痛み、眠れなかった。みんな非常に親切で、主任看護婦のおかげで入院期間が3日から2週間、1か月と伸び、結局まる2か月も入院してしまった。ここは社会主義の国だったので、医療費を請求するシステムはなくて、私は医療費を支払うことがなかった。

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 ギブスを外した後も、手首を動かすと痛み、曲がるようになるまでは、かなりに時間がかかった。
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 入院期間中の2か月間には、いろいろなことがあった。入院患者同士で2回ほど喧嘩をしたり、シラミがわいたり、多くの人から食べ物をもらったり、日本人の旅行者が見舞いにきてくれたりした。暇をつぶすような本がなかったので、病院中の看護婦さんと親しくなったり、結構楽しい入院生活だった。
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 私が入院したころは、見舞客が持ってくる果物は、オレンジとバナナだったが、5月の下旬になり、退院が迫ったころには、季節も変わって、ビワだけになった。また、ツバメが忙しく巣を作っていたのが、かわいいヒナがかえり、やかましく鳴きたてるようになっていた。2か月という時間をしみじみと感じた。
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 病院にやってくる患者のほとんどが肺と胃の病気で、レントゲン写真では、その部分が真っ白になっていた。
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 1か月もたったころ、親しくなった看護婦さんが「もうここで結婚して、べべ(子ども)でもつくりなさいよ。この病院には、大勢ミスがいるわよ。私もミスよ。」と言ってくる。たびたび聞かされるうちに、冗談とも思えなくなってきた。ここの女性たちは、すぐ私の髪を触りたがった。彼女たちにとって、カールしていない髪がうらやましいようだ。
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 ある日、そんなに触りたいのなら、私の髪を洗ってくれよと頼んだところ、洗濯用の粉石鹸を使うのには参った。(その時、まだ手が使えなくて、頭がかゆかったのです)
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 入院中にこちらの娘の素顔を見ることができた。町で見る女性は、ほとんどが頭から白い布を被り、男と目が合うと軽蔑したような目つきをするが、布の下は普通のかわいい女の子だ。白い布の下は、流行のジーンズをはいていた。彼女たちも病院から出ていくときは、やはり頭から布をすっぽりかぶってしまう。でも大きな町では、白い布を被らない娘の増えているらしい。

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オートバイの旅(45)Tunisia-1978/02/20 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(45)Tunisia-1978/02/20

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1978/02/20   モエズ少年
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 チュニジアに入ってからは、天気も良くなり、ローマ遺跡を見て回った。朝は息が白くなるぐらいには冷えるが、日中の陽射しはきつくて、日陰を探すくらいだ。
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 チュニジアの建物は、壁の色が白で、窓枠がブルーの2色で塗られている。この気候にふさわしく、すがすがしいものだ。郊外の牧草地の緑の中での白とブルーの農家の家はさらに美しく感じられる。
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 首都チュニスで、モエズという少年と町中の広場で知り合った。ここの学校は昼休みが2時間もあって、彼はいつも店でパンとミルクなどを買って、広場で食べていたのだ。その時に私と出会って、私にソーセージをご馳走してくれたのだ。彼と私は全く共通する言葉がなかったのに、意思は通じた。学校帰りに、また広場で会って、彼の家に行くことになった。
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 彼の父親はラジオ局のアナウンサーで、ほとんど家に帰ってくることがないようだった。家に母親と小さな弟がいた。モエズはまだ10歳ぐらいだが、すでに外国語の勉強を始めていて、大人ぶった態度と言葉づかいだ。
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 父親がほとんどいないし、弟はまだ4歳ぐらいで話相手にならない、兄貴が欲しいらしく、私と一緒にいるのがとても楽しそうだった。町へ出ても私という大きな兄貴ができたというように胸を張って歩き、友人に会うたびに大威張りで私を紹介した。
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 彼の母親は、突然の私の訪問に驚くことなく、大歓迎してくれた。とても優しい女性だった。土地の習慣で、外出するときは頭から白い布を被り、その美しい顔を隠した。その仕草は、私たちが冬の寒い日にコートを掛けていくような自然なものに感じられた。
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 彼女は毎日、私のために昼と夜にチュニジアの料理をあれやこれやと作ってくれた。近所の人たちとも親しくなり、隣の娘二人と近所の少女が絶えず遊びに来た。

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 昼食の後、風呂屋へ行ってみた。日本と同じように町内に銭湯がある。石鹸とタオルを持っていく。午後1時から夜9時までが営業時間だ。入り口で入浴券を買って、右のドアから入る。左は女風呂だ。更衣室の次のドアの中にシャワールームが並んでいて、大きな湯舟はなかった。30分も身体を洗っていると、少しのぼせて、フラフラする。ところがモエズ少年は長風呂だ。いつまでも入っているので、風呂屋の親父がドアをたたき、早く出て来いと怒鳴った。
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 私は日本のようにシャツの裾をズボンから出して、ボタンも留めずに銭湯から出てくると、モエズ少年が私にボタンをきちんと止めなさいと注意した。ここは礼儀正しい回教の国なのだ。
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 家に帰ってから、モエズ少年は母親にお金をねだった。私を映画へ連れていきたいらしい。いつも私を喜ばせようと彼は気をつかっているのだ。しかし、彼の家は、それほど裕福ではないのだ。私が金を出すと言ったら、モエズが気分を悪くするに違いないので、私は「モエズ、きょうは疲れているので、映画に行きたくないんだ。」と断った。
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1978/03/01   出発
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 1週間以上もお世話になったので、出発することにした。モエズは私の靴下や衣類の穴を見つけては、繕いをしてくれた。彼は学校へ行っている間に、私が出発してしまうのがたまらなかったのだろう。バスがなかなか来ないから学校まで送ってくれと、甘えるのだ。彼の気持ちが嬉しかったので、荷物を積む前に送って行ってやった。(彼は教室の中で泣いていたかもしれない。)

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1978/03/07   納屋
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 キャンプした農家の庭先を出発して、アルジェリアの国境へ向かう。最後の町フェリアナで残りの金をすべて使う。ガソリン15リットル、ビスケット、コンデンスミルク、チーズなどを買い込む。まだ、少し残っていたので何を買おうかと、路上で手のひらに小銭をのせて、計算していると、私がガソリンを買う金もなくて困っていると思ったのか、私を見ていたリビア人の男がお金をくれた。私はさらに金を使い切るのに困ってしまった。
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 アルジェリアへは、山越えをしなくてはならない。国境事務所までの上り坂を鼻歌交じりに飛ばしていると、突然大きなバンクのついたコーナーに突っ込んだ。アッと思った瞬間、路面にたたきつけられた。思い切ってバイクを傾けたので前輪がスリップしたらしい。両足の膝を強打して、しばらくの間起き上がれなかった。間もままくしてコーナーを曲がってきた税関役人に助け起こされて、道路端まで連れて行ってもらった。コーナーだから、そういつまでも寝転がっているわけにもいかない。下手をすると、さらに車に引かれてしまう。3人の男たちも重いバイクを起こすのに手こずった。ヘッドライトとウインカーランプが壊れた。買ったばかりのオイル缶が破れ、路面に流れていた。彼らは事務所へ行かなくてはならないが、私をほっておけないと言って、無理矢理に私をバイクに乗せて、先に行かせた。自分ではキックできないほど、右膝が痛んだ。
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 出入国手続きを終えて、すぐにどこかでキャンプしようと走り出したが、ステップの上に足をのせていると、足が伸びなくなってしまった。仕方なく足を垂らしたまま走る。そして、テベッサの手前の農家にたどり着き、納屋にキャンプさせてもらった。とても親切な人たちで助かった。その日はアスピリンを飲んで寝る。

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 この農場は2家族が働いていた。まだ寒いので、家の人たちは毎日炭火を持ってきてくれた。食事も運んでくれた。膝が痛んで、起きるのが大変で、畑の中でやるトイレも大変な仕事だった。
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 3日目に町の人が農場にミルクを買いに来たので、薬を買ってきてくれと頼んだところ、町の病院へ行くように勧められた。無理してバイクにまたがり、そのアルジェリアの田舎の病院へ行ったところ、日本人の看護婦さんがいるではないか。びっくりした。その人も驚いたようだった。(彼女はカトリック教会の活動として、その病院で働いていた。)
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 レントゲン写真を撮ってもらったが、骨には異常がなかった。毎日マッサージをした。看護婦さんから借りたカトリックの雑誌と文庫本を端から端まで読んでしまった。
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 農場の人たちは毎日毎日私の所へ食べ物や飲み物を運んでくれる。1週間にもなるというのに彼らの親切は変わらなかった。私が喜んで食べるのを嬉しそうに見ていた。毎晩、私たちは納屋の炭火を囲んで、9時ごろまで話していた。
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 夜明け前、腹痛で目を覚ます。すごい下痢だった。変な味のするゲップが出た。毎日、油の多いものを食べていたので、消化不良を起こしたらしい。私は他人の家にお世話になるたびに腹を壊すのだ。たぶん日頃はパンしか食べていないので、腹が美食になじまないのだろう。
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 朝、若者が私が好きになった玉子ケーキを持ってきてくれたが、その時は最悪の状態だったので、食べられなかった。おいしい匂いなんだが、その時はだめだった。腹の具合が悪いといっても若者たちは理解できない様子だった。申し訳ない。私を喜ばせるために彼の母親が作ってくれたのに、私が手を付けようとしないので彼は不満顔だった。人の家に世話になって腹の具合が悪くするのはつらいものだ。若者は、それじゃ別のものと、ミルクやソーダ水などを運んでくる。そのたびに、ごめんね。ごめんね。と言いながら、いらないと手を振るしかなかった。
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 夜になると、今度は親父さんがスパゲッティを持ってきた。もう私は何と言って断ればよいかわからず、悲しい気持ちで首を振った。親父さんは、ただ、そうかといって持って帰った。ごめんなさい。私は、きょう一日は何も食べないのがよいのだと言いたいのだが、説明できない。
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 その農場に滞在して10日目が過ぎた。また、寒さがぶり返したようだ。膝も曲がるようになり、なんとか歩けるようになった。明日、出発することにした。荷物の整理をして農場の人たちにあげるようなものはないかと探したが、何もなかった。ほとんど使ていない手袋があったので、若者にプレゼントした。若者の手は大きくて合わなかったが、内張りをはがして手を入れてしまった。毎朝、彼の手は真っ赤だったのだ。冬の雨の中での畑仕事はつらいと思う。大喜びして、ママに見せてくるといって、家の中に駆け込んだ。

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オートバイの旅(44)Argeria-1978/01/16 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

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1978/01/16         「サハラ」
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 空が明るくなったので、テントからはい出した。真平らな砂の世界だ。誰もいない。まわりの砂漠の世界と比べると、なんと自分とテントの中の世界が小さいことか。・・・自分自身がみるみるうちに小さくなっていくようだった。無性にさびしい気持ちに落ち込む。それを払いのけようと鼻歌を歌う。口笛も吹く。風の音が音楽のように聞こえる。耳鳴りがするほどの静かさだ。テントを片づけ、そこから逃げ出すように出発した。
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  また、昨日と同じ洗濯板の道が続く。40キロ行ったところで、池の底のようなところに出た。路面の表面の粘土がきれいに乾き、アスファルト舗装のようだ。久しぶりに70キロのスピードで進んだ。50キロ地点を過ぎてもアスファルト舗装の新しい道に出ない。いらいらしたとき、灰色の山を這い上がっていく黒い道路を見つけた。うれしくて、凸凹も気にしないで突き進んだ。そして、大きな溝に落ちて転倒した。バイクはバラバラになったような大きな音をたてたが、幸い走るのに支障はなかった。
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 その新しい道路に駆け上った。アスファルト舗装の幅広い道路はアラックの方向へどこまでも伸びているではないか。苦しい思いをしてガタガタ道を走ってきたことがばかばかしく思える。でも、良い。とことんサハラの道を走ったことに満足を覚える。
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 その場に座り込んで、今までの道のりを振り返った。辛かったけど、もうその辛さに実感は忘れてしまった。キャブが故障したり、ガソリンを流してしまったり、何度ももうだめだと思いながら、ここまで来てしまった。
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 砂の表面に大きく「サハラ」と書いてやった。
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 さあ、100キロ先のインシャラへ出発だ。いつも低速で走っていたので、バイクは不機嫌だ。アクセルを開けると、すぐにミスファイヤーしてしまう。プラグを交換する。どうやら、アルジェリアのオイルが悪いようだ。
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 砂の色が黄色に変わった。砂粒も細かくなったようだ。風によってすばらしく美しい砂紋ができる。
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 風が急に出てきた。バイクを少し傾けて進んだ。完璧に2車線のアスファルト舗装だから、すぐにインシャラに着くと思ったが、意外と時間がかかった。道路わきには昔の砂道が見える。
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 ついに前方の砂の中に町のようなものが現れた。インシャラの町。やはり土色の町だった。緑が全くない小さな町だ。左折して町に入る。
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 今日は特に寒くて、町の中を風が渦巻いていた。もっと暖かくて明るい町であってほしかった。私の心は、寒くて暖めてほしかった。
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 インシャラの町の裏には大きなヤシの木の畑があった。ナツメヤシの実を採る。その周りを大きな砂丘が取り囲んでいた。その丘で銀色のアリを見つけた。アリも直射日光から身を守るために銀色になったのだろうか。銀色の毛が密生しているようだ。そこで10日間キャンプした。イギリスからトラックで旅行しているグループと親しくなった。彼らは、ここまできて、エンジンを壊してしまい、その修理のためにいつ届くかわからないエンジンを1か月も待っているという。
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 インシャラからエルゴレア、ガルダイアを通り、北上する。寒くなった。いつもの完全防寒姿になる。エルゴレアからは舗装路も2車線になっていたが、ところどころ砂が吹きたまっていた。
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 大地を登ったり下ったりして、台地の谷間に下りていくと、突然、左側の岩の間から光輝く壁が目に入った。アフリカの旅を通して、これほど色鮮やかなものを見たことがなかった。今までは砂ばかりで、人工的なものは全くなかったので、非常な驚きとして感じられた。驚きのあまり自分の目を疑った。もう一度確かめようとブレーキを踏みそうになったが、急な下り坂だ。バックミラーに車が映ったので、走りすぎた。そして次の岩の間からもう一度見た。

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 ガルダイアの町だった。谷間の斜面にびっしりと色鮮やかな箱型の家が並んでいる。これまでのオアシスとは違い、すべての土壁の家がペンキ塗りされていた。丘全体が家で覆われ、その頂点にモスクの塔が建っていた。周囲の砂山の中にその町が黄金のように光輝いていた。
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 このまま通り過ぎるのが惜しくて、その町の裏にあるヤシの木の下でキャンプすることにした。この町のヨーロッパ的なにぎやかさを感じると同時に、もうアフリカの旅が終わりに近いことを感じた。
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 アトラス山脈の中に入って行くにつれて、草が多くなり、民家も道路わきに見られるようになった。羊の群れも見られるようになった。町の市場にも野菜類が豊富に並ぶようになった。
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 でも、空はどんよりと曇って寒くなった。ジェルファの町を過ぎると、今までとは違った下り坂になった。地中海へ向かって下っている。森があり、道路沿いには、きれいに並んだ苗木の植林が続く。ジェルファの町からアルジェへ延びる線路を見ながら北上する。地図に書かれていない村がいくつもあった。ガソリンもある。もう砂漠の孤独の走行ではなくなった。ガルダイアから車の数が多くなった。
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 メディアの町を過ぎたあたりが、この山脈の最高地点らしく、もう緑ばかりだ。その風景には、これから訪問するスイスのように美しく感じられた。数日前の砂漠地帯が信じられない。また、サハラ砂漠を本当に越えたことが、まるで夢のようだ。


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 牧草地の並んだ丘の風景は美しい。うっとりと眺めながら進む。いつの間にか首都アルジェに到着してしまった。そのまま町中を進んで行ったら、地中海に出てしまった。町はずれの海岸から見るアルジェの町は美しかった。地中海に打ち寄せる波は、アフリカの旅が終わって、これからヨーロッパの旅が始まるのだと強く感じさせた。アフリカを旅しているときはヨーロッパまで行けるのだろうかと、夢のように思っていた。とうとう地中海まで来てしまった。

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 北アフリカで、春になるまで過ごすためにチュニジアへ向かった。この辺は冬季に雨が集中するので、毎日の走行が嫌になる。また、牧場がどこまでも続くため、テントを張る場所が見つからない。あまりの寒さと雨で気が弱くなってしまい。普段はお金を使いたくないので行かないのだが、ホテルの下のカフェに入ってしまった。小さなガラスカップのアラビック茶を飲む。安くはないので、1杯の茶をちびりちびりと飲み、身体が温まるのを待った。持っていたタバコも濡れてしまって、火もつかない。
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 夕方になっても雨は降り続き、今夜はどこで寝ようかと考えた。この辺りの地形が分かっていたので、雨の中を走り回っても、テントを張る場所はないだろう。カフェの中庭に少し雨のかからない場所があったので、店主にここで寝かせてくれないかと交渉した。店主はボーイの青年に2階のホテルの部屋へ連れていくように言った。
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 次の日も雨だ。しかし、出発することにする。ずぶ濡れで、寒さに震え、無性に悲しかった。山を一つ越えると雲が薄らぎ、青空が出た。その青空の下に林があったので、そこへ入り込んだ。そこら中に衣類やシート、寝袋などを広げて乾かした。陽光が本当にありがたいと思った。
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 近くの集団農場の若者たちがやってきた。お茶や食べ物を運んでくれた。ここで3日ほど滞在する。彼らは映画やバーへ毎日連れて行ってくれた。バーへ行ったときなどは、4人で小銭を出し合って、コップ1杯のビールを注文して、私だけに飲ませてくれるのだ。彼らの気持ちが嬉しかった。

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オートバイの旅(43)Argeria-1978/01/12 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(43)Argeria-1978/01/12

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1978/01/12   ハエ
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 水6リットル。パン6本。オイルサーディン缶6個。オイル6リットルを持って出発。しばらく行くとアスファルト舗装が終わった。その先は軍によって、新しい道路が建設中で、トラックのワダチが入り乱れていた。どれが本来の道なのか区別がつかず、道に迷った。心配していたより良い道だ。よく整備されていて、砂の深いところは、地盤まで掘り下げてあった。しかし、激しい凸凹は変わらない。
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 2時過ぎ、風も出てきたので、キャンプ地を探す。朝から150キロ進んでいた。岩山の陰でテントを張る。この何もないところに、どこからかハエが集まってきて、私に群がった。まさかバイクにくっついてタマンラセットから来たとは思えない。何を食って生きているのだろうか。オイルサーディンの缶を開けると、更にその数は増えた。いくら群がっても気にするまいと思ったが、やはりだめだ。殺虫剤を取り出して、靴、ズボン、ジャンパー、テント、シートに吹きつけた。その匂いでしばらくはいなくなる。
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 バイクの整備にかかった。(プラグ、ポイント、エアクリーナ、)異常放電をしているのだろうか。バッテリーは熱くなっていないが、エンジンを掛けないとフラッシュランプは点灯しない。このバイクはバッテリーの充電がなくなるとエンジンはかからない。念のためにレギュレータを交換した。

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1978/01/13   小さな虹
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 夜明け前に、すごい風が吹く。砂嵐でもやってくるのかな。9時過ぎ、風がやんだので出発。空はどんよりと雲に覆われている。昨日と同じような洗濯板状の道を進む。工事中の道路にぶつかり、また私は道を失った。うろうろするうちに新しくないがトラックのわだちを見つけた。昨日の雨と風でワダチはどれも半分消えていた。そのワダチは進むにつれて、数が少なくなり、ついに2本になってしまった。本来の道ではないと思ったが、なぜか引き返ことができない。ただ、そこから抜け出したい一心で、ひたすら先へ進んだ。
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 がむしゃらに進んでいると、横からショベルドーザーに乗った4人の軍人とあった。私は近づいてインシャラへ行くのだというと、彼らは逆の方向を示した。彼らのフランス語は、まるで分らない。彼らは、とにかくあっちの方向へ真っすぐに行けという。何も目標はない。ただ真っすぐに行けというのだ。私は言われた方向に不安な気持ちを持ったまま走りだした。コンパスを取り出して方向を確かめると北の方へ向いていた。砂漠の中のワダチは少し離れるだけで、見えなくなってしまう。
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 トラックの古いワダチが1本あった。すぐ近くにメインルートがあるはずだ。落ち着くために、エンジンを止め、タバコを吸う。車が見えないかと周りを見てみた。車が来れば、遠くからでも道の位置が分かる。その方向へ真っすぐに走ればよいのだ。古いトラックのワダチをたどっていくと、たくさんのワダチにぶつかった。本来の道だ。今日付けられたらしい新しいものもあった。しかし、左か右か、どちらの方向へ走ったら良いのかわからない。コンパスを見て、北西の方向へ向かった。
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 3時ごろ、天気が悪くなってきたので、山陰にテントを張る。風が吹き荒れ始めた。カサカサに乾燥してしまったパンを食べるには大量の水が必要なので、パンは少しでやめてしまった。
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 バイクを点検していると、とうとう雨がやってきた。テントの中に逃げ込んだ。テントと地面が濡れてしまうぐらいに、この砂漠の中に降った。降ったりやんだりして、その合間にバイクの整備をする。小さな虹も見えた。
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 テントの中で日記を書いていると、この近くで働いているらしい軍人が、私のテントを見つけて寄ってくれた。バイクが故障したのかと心配してくれたのだ。彼は私にタバコを置いて行ってくれた。
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 夜になるとテントが千切れそうになるほどの風が吹いた。支柱を押さえながら寝る。

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1978/01/14   補助コック
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 今朝もあまり天気が良くない。水が悪かったせいか、どうも下痢気味だ。今日はできれば150キロ先のアラックに行きたい。ガソリンがあるというから食堂や食料品店もあるだろう。タバコも買えるだろう。

 ほとんど砂がない路面だったが、やはり激しいコルゲーションでバイクが壊れそうだ。胃袋がおかしくなりそうだ。苦しい。ところどころに車のマフラーやナンバープレートが落ちている。
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 ガソリンの状態は、いつもより早く補助コックに変わった。リットル当たり10キロ以下になった。タマンラセットから400キロの地点になっても、まだアラックに着かない。少しイライラしてくる。道を間違えたかな。行き過ぎたかな。イライラしてくると、いつもより幻を見るようになる。遠くに家や車が見えてくるのだ。
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 砂塵の詰まった穴に落ちて、転倒する。ガソリンがほとんどないので、バイクは軽く起き上がった。前方から、旅行者の車が2台やってきた。手を振る。サハラを超える車は、トヨタのランドクルーザやイギリスのランドローバーが主で、その他に小さなシトロエン、プジョーの乗用車、中型バス、フォルクスワーゲンのマイクロバス、小型トラック、大型トラックといろいろだ。色もカラフルだ。
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 やがて、山と山の間に緑を見つけた。アラックのオアシスだ。軍の移動宿舎があった。どこにガススタンドがあるのだろうと探しているうちに、その村から出てしまった。仕方なく軍人の宿舎を訪ねた。彼らはスタンドの場所を教えてくれた。食堂も食料品店もないことを知らされて、がっかりした。スタンドには子供が4人いた。顔にハエがたかり、顔は私のようにバサバサだ。どこからこのハエが湧いてくるのか不思議だ。ガソリンを40リットルだけ買う。値段はタマンラセットと同じ公定料金で145ディナールだった。主人からタバコを4個分けてもらう。水は軍の宿舎でビニールの大きな袋に入れていたものを分けてもらった。
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 ここから45キロ先でアスファルト舗装になると聞いたので、食料の心配もなくなった。インシャラまで300キロだ。
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1978/01/15   オアシス
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 タマンラセットからインシャラまでの新しい道路は、ほとんど基礎工事を終え、後はアスファルトを流すだけだった。今年中に完成するらしい。
 今日も曇っている。地図をよく見ると、雲がアトラス山脈をこえ、ここまでやってきているようだ。アラックを出て、砂の上に放置されたフォルクスワーゲンのマイクロバスを見つけた。まだ新しいオーストラリアの車だ。どうやら、ここで故障して捨てたらしい。また、激しい洗濯板が続く。現地のトラックに出会って、ここから道をそれて、ブッシュの中を行けば、アスファルトの道路に出ると教わった。しかし、私は最後までこの凸凹道を行くことにした。道は山の間を縫って進む。水のない川にぶつかると、それに沿って進む。時どき道路の真中に車が転がっている。ボディの骨組みを残して、すべてむしり取られて何も残っていない。
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 道は相変わらず凸凹だ。時速25キロで進む。エンジンの調子がおかしくなりそうだ。風はほとんどなくなった。崖の下を行くと、小さな井戸が1つだけのオアシスに出会った。絵本に出てきそうなオアシスだ。砂の世界にそこだけが、みずみずしくて、美しいヤシの木が茂り、土壁に家があった。しかし、どういうわけか、その周りには鉄条網が張り巡らされ、ちらっと人影が見えた。
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 いつの間にか3時を過ぎていた。150キロの地点でキャンプする。真平で、何もない殺風景なところだが、今日は風の心配はないだろうと思った。最後のオイルサーディンを食べる。

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オートバイの旅(42)Argeria-1978/01/07 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(42)Argeria-1978/01/07

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1978/01/07          うまく着地してくれた
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 昨夜、補給したガソリンが全部、流れ出してしまっていた。タンクの中は空になっていた。ガスコックを閉め忘れたのだ。今までコックを閉め忘れてもガソリンがすべて流れ出すことはなかった。原因を調べる以上に、これでガソリンが足りなくなりことが確かだった。
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 予備ガソリンのコックを切り替えると、またガソリンが流れ出した。キャブからオーバーフローしたガソリンが砂に吸い込まれていった。キャブのバルブシートがいかれてしまったのだ。トラックはすぐに出発するだろう。修理などする時間はない。私はもうサハラ砂漠を縦断をあきらめてしまった。ガックリしていた私を日本の青年たちが励ましてくれた。ちょうど税関の手続きが始まっていたが、時間がかかっているようだから、その間に修理すればよいというのだ。
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 私は彼らにパスポートを渡して、私の通関手続きもやってもらうことにした。キャブレターをはずして点検した。振動でフロートレベルが上がってしまているのが分かった。なんとか修正した。そして、たまたまアリジェからやってきていた旅行者から5リットルのガソリンを分けてもらうことができた。これでなんとかガソリンは足りるだろう。
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 トラックはまた走り出した。遅れないように追っかける。石の多いところは、トラックのスピードは急に落ちた。時速30~40キロだ。しかし、それもつかの間で、凸凹の全くない砂の平原になると、トラックは80キロ以上で突っ走るのだ。また、遅れた。車が一度通過したところは、砂の固くなった表面がくずれていて、ハンドルが取られる。ワダチノないとことを選んで90キロで追いかけた。非常に快調に進んだが、前方に何かあっても避けることができない。砂の柔らかいところを避けて、少し高いところに登った時、その反対側はストンと切れ落ちていた。もちろんブレーキは間に合わない。そのまま落ちてしまたが、バイクはうまく着地してくれた。
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 1時過ぎ、トラックの群れはある廃墟の小屋の前で停まった。すぐにバイクの整備だ。エアクリーナは砂で詰まっていた。トラックの砂埃を吸い込むのではなく、バイクが砂の中で停まってしまったとき、後輪が巻き上げる砂を吸い込んでしまうのだ。昼食をとる時間がなく、水を少しだけ飲んだ。トラックは暗くなっても、今日中にタマンラセットまで走り続けるのだろうと心配したが、運転手は6時にはトラックを停めると言ってくれた。

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 先頭のトラックについてスタートしたが、しだいに遅れて、最後のトラックに追いすがるのが精一杯だ。そして夕方だんだん陽が落ち始めた。もう付いて行けないと思ったとき、前方で4台のトラックが並んで待っていた。日本の青年たちは、私が来れるかどうか本気で心配していてくれた。この後もこのトラックは私が遅れても待ってくれないだろう。その日のうちにたどり着けなくても彼らが引き返してくるはずはない。ともかく、落伍しないように全力をあげなくてはならず、すぐにエアクリーナとプラグの整備だ。再度キャブレターの点検をする。エンジンは好調になったが、前輪がパンクしていた。修理する時間はない。小さな穴らしいので、空気圧をあげてタマンラセットまで持たせることにした。
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 すぐに暗くなった。日本の青年たちは、まったく食料を持ってきていなかった。1万フランも払っているので、食事が出るものと思っていたのだ。私のパンやオイルサーディンを分け合った。私は食欲がない。疲労と緊張で眠れなかった。もう1日苦しい走行をしなくてはならない。朝がやてくるのが怖かった。
 東の夜空にさそり座、北にカシオペアが見られた。
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1978/01/08   ぐっすりと眠った。
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 空が明るくなるとすぐ出発だ。あと150キロだ。今日はいくら遅れても町に着けばよいと思うと少し気が楽だ。
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 今日の道はトラックにも厳しく、走り出して早々、1台のトラックが砂に埋まったのだ。私は「ざまーみろ。」という気持ちだった。もちろん私のバイクもそこで動けなくなったが、それほど苦労せずに脱出できた。2台のトラックと私は彼らを残したまま出発した。途中で一度待ったが、2時間待っても来ないので、私たちは、そのままタマンラセットへ向かうことにした。
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 タマンラセット周辺は山道だった。ほとんど砂がないのだが、激しい洗濯板状になっていた。町に近づくにつれ、エンジンのパワーが落ちたが、なんとか走り通した。
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 私たちは、待ちぼうけを食ったようだった。後のトラックは砂が深いので、別の道へ迂回し、すでに町に到着していた。
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 900キロを走り通したのだ。嬉しかった。しかし、まだインシャラのオアシスまで700キロの砂の道がある。どのようにして行くか考えなくてはならない。もうトラックと一緒は嫌だ。マイペースで行きたい。ただ、ガソリンをどうするかだ。
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 荷物を全部、バイクに乗せるとずしりと重い。フラフラしながら走り出した。町の入り口にゲートがある。まず、税関へ行く必要があるのだが、早く何か食べたくて、そのまま町に入った。
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 最初のアルジェリアの町のメインストリートはアスファルト舗装だった。どこに食堂があるのかさっぱりわからない。日曜日のせいか、今まで通ってきたニジェールや他のアフリカの町と比べると非常に静かだ。その静かさに不安を感じる。物を売り歩くものもいないし、群がってくる子供もいない。人は静かに歩いている。わめくような奴もいない。ここの町も土壁でできていたが、ちゃんとした家になっている。役所も土壁だが、立派なものだ。看板はすべてアラビア文字でさっぱり分からない。
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 フランスの町中のように歩道にテーブルを出している店もあった。そこで食事をした。値段が6ディナールであることを確かめて注文した。約450円。非常に高いが、何でもよいから食いたかった。ニジェールのように100円のめし屋はないようだった。物価が高いのだ。
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 料理はトマトソースの中に豆と一切れに肉がはいっているだけだ。それとアルジェリア風のパンに少し冷えたスープだが、文句を言う前に全部食べてしまった。
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 税関の申告と入国手続きをした後、町の外へ行き、キャンプする。久しぶりにテントの中でぐっすりと眠った。幸せだった。
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 このタマンラセットで4日ほど滞在して、クラッチの点検、ステアリングの修繕、パンク修理をした。そして、ガソリンを運んでくれる旅行者やトラックを探した。トラックはガソリンを積むのを嫌がた。ここから400キロ先のアラックで、ガソリンが手に入ることが分かったので、一人で行くことにした。そしてこの町のガソリンがいつなくなるかも心配で、早く出発を決めたかった。ガソリンを購入した次の日、町からガソリンがなくなった。ガススタンドは一軒だけなのだ。

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オートバイの旅(41)Niger-1978/01/04 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌
(41)Niger-1978/01/04
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1978/01/04   5台のトレーラー車
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 ガソリンと荷物を運んでくれるトラックが見つかった。 5台のトレーラー車のグループに加わって進むことになった。前夜に約80リットルのガソリンをトレーラー車の荷台に積み込み、トラックの荷台で星を見ながら寝た。
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 翌朝、また私はガススタンドへ走り、予備のガソリンをトラックへ運んだ。運転手たちは、またガソリンかと驚き、爆発しやすいからダメだと言い出した。そして、すでに積み込んであるあった私の荷物とガソリンを降ろしてしまった。今更、そんな大量のガソリンを抱かえ込んでどこえも行けない。癪に障ったので、そのままのしたまま、コーヒーを飲みに行った。
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 このトラックには、日本の青年2人とヨーロッパの青年3人が便乗することになっていたが、運転手たちが一人1万フランの料金の分け前をめぐって仲間割れをしていたので、私たちはすっかり嫌になってしまった。
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 別のトラックが私の荷物を運ぶことになった。昼過ぎに5台のトラックがあわただしくアガデスの町を出発した。私は3日分の食料としてパン6本、オイルサーディン6缶を買っていた。
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 運転手たちは2日半でタマンラセットに着くといった。私は、この巨大なトレーラー車の群れの中に入って走り出した。これら5台のトレーラー車は、洗濯板のような凸凹道を80キロ以上のスピードで飛ばすのだ。私は荷物はないのだが、付いて行くのに必死だった。更に、いつも30リットルのガソリンを積んで走っていたので、バイクが軽すぎて安定しない。リアクッションセッティングがそのままなので固すぎて、バイクが跳ねた。フラフラして何度も砂にハンドルをとられた。
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 初日なので、トラックは何度も停まっては点検して進んだ。おかげで、私は非常に疲れていたが、遅れることなく付いて行くことができた。トラックが停まるたびに荷台に飛び乗ってはガソリンを補給した。激しい振動で荷台の上の予備ガソリンは、あちこちに転げまわっていた。2リットルの予備タンクは全部こぼれてしまっていた。危険だった。他は大丈夫だった。また、バイクの振動でバイクのメインキーが抜けて飛んでしまった。あわててスペアーキーを荷物から探し出した。バイクのほとんどの部品が、擦れ減っていた。
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 夕方6時にトラックの群れは熱湯の出る井戸の周りに集まった。停車すると、すぐに私は、調子が悪くなったバイクの整備をした。エアクリーナは砂で詰まっていた。プラグのチェック、ポイントの調整をする。すぐに暗くなった。ガソリンとオイルの補給をして、トラックの荷台でパンとオイルサーディンを食べて、すぐに横になった。
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1978/01/06   トラックはどこへ行ったんだ
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 明るくなると同時に出発。この日はもう死ぬかと思うぐらい苦しかった。トラックは全輪駆動車で、10個の大きなタイヤを付けている。少しぐらいの砂では問題なく進んでいく。バイクはそうはいかない。朝、走りだしてすぐバイクは砂の中で、もがくようになった。トラックは砂の浅いところでは、ルートからそれて近道をして行く。しかし、彼らも砂が深くなると、すぐにルートに戻った。
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 ちょうど砂が深くなったとき、私はワダチの中を進んでいたが、砂の中にもぐってしまい、動けなくなった。後ろからはトラックが迫ている。いつまでも私が停まっていれば、トラックも砂にもぐって動けなくなる。必死で両足を出して砂を蹴った。トラックの動きがバックミラーで見える。みるみるうちに私の後方に接近する。焦ればさせるほど動悸が激しいなるばかりで、バイクが進まない。トラックが私を踏みつぶしそうになったとき、その砂地から脱出した。
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 トラックのワダチに乗り上げて、私は転倒した。すぐ後ろからやってきたトラックが脇すれすれに通過していく。バイクはタイヤを上にしてひっくり返った。なかなか起き上がらない。すぐにトラックの後を追いかけたが、もうその姿は見えなかった。風景など見る余裕はなかったが、少し植物があったようだ。刺のある草が一面に生えているところもあった。
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 エンジンがノッキングするようになった。スロットルグリップがフルになっていた。もう走るのは無理だ。エンジンを止めた。エアクリーナを取り外すと砂がこぼれ落ちた。どこに住んでいるのか子供と男がたちがどこからかやってきた。遊牧民たちだ。工具にさわろうとするので、怒鳴って追い払った。
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 好調な排気音が戻った。グリップを回すと敏感に反応し、回転が上がった。必死でトラックを追った。どこへ行ってしまたのだろう。いくら進んでも姿が見えない。走り出してから100キロを超え、補助コックに代わった。あと3リットルだ。130キロを過ぎた。まだトラックが見えない。あせった。間もなくガス欠になる。
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 砂丘を超えたとき、前方にトラックの一団が見えた。しかし、確認するまで安心できない。ちょっとした樹木とか、なんかの光の反射でトラックの一団に見えるようになっていたからだ。
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 よかった。まぎれもなくトラックの一団だった。運転手たちは昼飯の支度をしていた。私は追いついた嬉しさを楽しむ暇もなく、すぐにバイクの整備を始めた。エアークリーナを外したら砂がこぼれ落ちた。食事をする時間もなく、整備が終わるとトラックは走り出した。
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 トラックに便乗している日本の青年にカメラを渡し、私の走っている姿を撮ってもらうことにした。運転手に、私の走行距離は100キロぐらいだと伝えたが、彼らはとても待ってくれそうにもなかった。5リットルの予備ガソリンを持て走ることにした。バイクを上下に揺さぶりながら、砂の深いところを進んだ。後輪が空回りする。すぐにトラックの姿は見えなくなった。しかし、その先で彼らは仲間のトラックと出会って休んでいたので、やっと追いついた。喉がカラカラだが、休む暇はない。トラックの荷台に上がり、ガソリンを補給した。そのとき少しガソリンを飲んでしまった。タンクから移すときに、私はガソリンをホースで半分ほど吸い込んで移していたのだ。唇が荒れ始めた。トラックの荷台の上の荷物やガソリンは、いくら整理して固定しても荷台の上を転げまわった。ガソリンがこぼれていた。危険だが仕方ない。
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 再び、トラックとはぐれてしまた。私はメインルートを走ったが、彼らはルートからそれて近道をしていく。夕方、やっと合流して、その後はトラックから遅れないように必死にくっついて走った。そして暗くなり始めたころ、国境事務所のあるアサマカに到着。今日はここでキャンプだろうと思ていた。しかし、出国手続きが終わるとトラックはアルジェリアの国境へ向かった。今日中に出入国手続きを終えておくつもりらしい。
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 私はガソリンを補給する暇もなかった。運転手はすぐそこだという。すぐ暗くなった。私はどんどん遅れた。最後のトラックが私と並んで、路面を照らしてくれたが、それにも引き離されてしまった。砂埃がもうもうと立ち込める。バイクの小さなライトでは前方がよく見えない。トラックのワダチを探しながら進んだ。まわりは真っ暗だ。突然砂の山に突っ込んで、バイクはすぐに止まってしまった。後輪が空回りを続ける。両足を出して押すのだが進まない。呼吸が苦しくなる。
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 前方に小さな光がちらりと見えた。車の尾灯だ。しかし、道が分からない。真っすぐその赤い光に向かって進んでいった。そしてもう少しの所でその光は行ってしまった。
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 今度は岩と砂が交互に現れた。何度も何度も転んで苦しい。バイクを起こす元気もなくなっていた。トラックはどこへ行ったんだ。バイクはオーバーヒートしていた。もうじきガソリンがなくなってしまう。どこかでぶつけたらしく右足が痛む。もう野宿しようと考えた。エンジンが冷えるまで真っ暗な中で休んだ。
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 少し元気が出たので、最後のトライをする。しばらく行くと、遠くの方に白い光が見えた。アルジェリアの国境事務所だ。目頭が熱くなった。そこまで一気に突っ走った。私は運転手を捕まえて、今夜はこれ以上行かないでくれと頼んだ。そして、落ち着く暇もなく、運転手たちの夕食の明かりをたよりに、バイクの整備をした。冷え込む夜だった。
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