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オートバイの旅(45)Tunisia-1978/02/20 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(45)Tunisia-1978/02/20

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1978/02/20   モエズ少年
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 チュニジアに入ってからは、天気も良くなり、ローマ遺跡を見て回った。朝は息が白くなるぐらいには冷えるが、日中の陽射しはきつくて、日陰を探すくらいだ。
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 チュニジアの建物は、壁の色が白で、窓枠がブルーの2色で塗られている。この気候にふさわしく、すがすがしいものだ。郊外の牧草地の緑の中での白とブルーの農家の家はさらに美しく感じられる。
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 首都チュニスで、モエズという少年と町中の広場で知り合った。ここの学校は昼休みが2時間もあって、彼はいつも店でパンとミルクなどを買って、広場で食べていたのだ。その時に私と出会って、私にソーセージをご馳走してくれたのだ。彼と私は全く共通する言葉がなかったのに、意思は通じた。学校帰りに、また広場で会って、彼の家に行くことになった。
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 彼の父親はラジオ局のアナウンサーで、ほとんど家に帰ってくることがないようだった。家に母親と小さな弟がいた。モエズはまだ10歳ぐらいだが、すでに外国語の勉強を始めていて、大人ぶった態度と言葉づかいだ。
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 父親がほとんどいないし、弟はまだ4歳ぐらいで話相手にならない、兄貴が欲しいらしく、私と一緒にいるのがとても楽しそうだった。町へ出ても私という大きな兄貴ができたというように胸を張って歩き、友人に会うたびに大威張りで私を紹介した。
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 彼の母親は、突然の私の訪問に驚くことなく、大歓迎してくれた。とても優しい女性だった。土地の習慣で、外出するときは頭から白い布を被り、その美しい顔を隠した。その仕草は、私たちが冬の寒い日にコートを掛けていくような自然なものに感じられた。
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 彼女は毎日、私のために昼と夜にチュニジアの料理をあれやこれやと作ってくれた。近所の人たちとも親しくなり、隣の娘二人と近所の少女が絶えず遊びに来た。

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 昼食の後、風呂屋へ行ってみた。日本と同じように町内に銭湯がある。石鹸とタオルを持っていく。午後1時から夜9時までが営業時間だ。入り口で入浴券を買って、右のドアから入る。左は女風呂だ。更衣室の次のドアの中にシャワールームが並んでいて、大きな湯舟はなかった。30分も身体を洗っていると、少しのぼせて、フラフラする。ところがモエズ少年は長風呂だ。いつまでも入っているので、風呂屋の親父がドアをたたき、早く出て来いと怒鳴った。
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 私は日本のようにシャツの裾をズボンから出して、ボタンも留めずに銭湯から出てくると、モエズ少年が私にボタンをきちんと止めなさいと注意した。ここは礼儀正しい回教の国なのだ。
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 家に帰ってから、モエズ少年は母親にお金をねだった。私を映画へ連れていきたいらしい。いつも私を喜ばせようと彼は気をつかっているのだ。しかし、彼の家は、それほど裕福ではないのだ。私が金を出すと言ったら、モエズが気分を悪くするに違いないので、私は「モエズ、きょうは疲れているので、映画に行きたくないんだ。」と断った。
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1978/03/01   出発
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 1週間以上もお世話になったので、出発することにした。モエズは私の靴下や衣類の穴を見つけては、繕いをしてくれた。彼は学校へ行っている間に、私が出発してしまうのがたまらなかったのだろう。バスがなかなか来ないから学校まで送ってくれと、甘えるのだ。彼の気持ちが嬉しかったので、荷物を積む前に送って行ってやった。(彼は教室の中で泣いていたかもしれない。)

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1978/03/07   納屋
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 キャンプした農家の庭先を出発して、アルジェリアの国境へ向かう。最後の町フェリアナで残りの金をすべて使う。ガソリン15リットル、ビスケット、コンデンスミルク、チーズなどを買い込む。まだ、少し残っていたので何を買おうかと、路上で手のひらに小銭をのせて、計算していると、私がガソリンを買う金もなくて困っていると思ったのか、私を見ていたリビア人の男がお金をくれた。私はさらに金を使い切るのに困ってしまった。
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 アルジェリアへは、山越えをしなくてはならない。国境事務所までの上り坂を鼻歌交じりに飛ばしていると、突然大きなバンクのついたコーナーに突っ込んだ。アッと思った瞬間、路面にたたきつけられた。思い切ってバイクを傾けたので前輪がスリップしたらしい。両足の膝を強打して、しばらくの間起き上がれなかった。間もままくしてコーナーを曲がってきた税関役人に助け起こされて、道路端まで連れて行ってもらった。コーナーだから、そういつまでも寝転がっているわけにもいかない。下手をすると、さらに車に引かれてしまう。3人の男たちも重いバイクを起こすのに手こずった。ヘッドライトとウインカーランプが壊れた。買ったばかりのオイル缶が破れ、路面に流れていた。彼らは事務所へ行かなくてはならないが、私をほっておけないと言って、無理矢理に私をバイクに乗せて、先に行かせた。自分ではキックできないほど、右膝が痛んだ。
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 出入国手続きを終えて、すぐにどこかでキャンプしようと走り出したが、ステップの上に足をのせていると、足が伸びなくなってしまった。仕方なく足を垂らしたまま走る。そして、テベッサの手前の農家にたどり着き、納屋にキャンプさせてもらった。とても親切な人たちで助かった。その日はアスピリンを飲んで寝る。

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 この農場は2家族が働いていた。まだ寒いので、家の人たちは毎日炭火を持ってきてくれた。食事も運んでくれた。膝が痛んで、起きるのが大変で、畑の中でやるトイレも大変な仕事だった。
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 3日目に町の人が農場にミルクを買いに来たので、薬を買ってきてくれと頼んだところ、町の病院へ行くように勧められた。無理してバイクにまたがり、そのアルジェリアの田舎の病院へ行ったところ、日本人の看護婦さんがいるではないか。びっくりした。その人も驚いたようだった。(彼女はカトリック教会の活動として、その病院で働いていた。)
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 レントゲン写真を撮ってもらったが、骨には異常がなかった。毎日マッサージをした。看護婦さんから借りたカトリックの雑誌と文庫本を端から端まで読んでしまった。
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 農場の人たちは毎日毎日私の所へ食べ物や飲み物を運んでくれる。1週間にもなるというのに彼らの親切は変わらなかった。私が喜んで食べるのを嬉しそうに見ていた。毎晩、私たちは納屋の炭火を囲んで、9時ごろまで話していた。
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 夜明け前、腹痛で目を覚ます。すごい下痢だった。変な味のするゲップが出た。毎日、油の多いものを食べていたので、消化不良を起こしたらしい。私は他人の家にお世話になるたびに腹を壊すのだ。たぶん日頃はパンしか食べていないので、腹が美食になじまないのだろう。
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 朝、若者が私が好きになった玉子ケーキを持ってきてくれたが、その時は最悪の状態だったので、食べられなかった。おいしい匂いなんだが、その時はだめだった。腹の具合が悪いといっても若者たちは理解できない様子だった。申し訳ない。私を喜ばせるために彼の母親が作ってくれたのに、私が手を付けようとしないので彼は不満顔だった。人の家に世話になって腹の具合が悪くするのはつらいものだ。若者は、それじゃ別のものと、ミルクやソーダ水などを運んでくる。そのたびに、ごめんね。ごめんね。と言いながら、いらないと手を振るしかなかった。
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 夜になると、今度は親父さんがスパゲッティを持ってきた。もう私は何と言って断ればよいかわからず、悲しい気持ちで首を振った。親父さんは、ただ、そうかといって持って帰った。ごめんなさい。私は、きょう一日は何も食べないのがよいのだと言いたいのだが、説明できない。
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 その農場に滞在して10日目が過ぎた。また、寒さがぶり返したようだ。膝も曲がるようになり、なんとか歩けるようになった。明日、出発することにした。荷物の整理をして農場の人たちにあげるようなものはないかと探したが、何もなかった。ほとんど使ていない手袋があったので、若者にプレゼントした。若者の手は大きくて合わなかったが、内張りをはがして手を入れてしまった。毎朝、彼の手は真っ赤だったのだ。冬の雨の中での畑仕事はつらいと思う。大喜びして、ママに見せてくるといって、家の中に駆け込んだ。

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