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オートバイの旅(49)Torkey-1978/11/08  [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(49)Torkey-1978/11/08

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1978/11/08        イラン国境
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 朝、8時になって、やっと明るくなった。朝からアンカラへ向かう幹線道路は車でいっぱいだ。アダパザンの大きな町で買い物をする。オリーブの漬物がフランスパンによく合うので買ってみた。100グラム、10円ぐらいだ。アルジェリアの病院ではほとんど食べなかたが、だんだんとその味が分かってきた。砂糖とマーガリン、タバコを買ったが、わずか1ドルちょっとだった。
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 10時過ぎに町を離れて、アンカラへ向かった。だんだん山道となり、低地では、ほとんど樹木を見なかったが、山が深くなると意外と樹木がある。松もよく見た。しかし、寒い。そんな寒い峠の頂上で昼食にする。オリーブの漬物とまだ少し温かいパンだ。水なしでもどんどん食べられた。オリーブの実は黒いが、梅干しのような感じだ。その渋みと塩加減がうまかった。ギリシャ、トルコの食料品店には、漬物がたくさん並んでいる。
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 ガイドブックの写真などで、トルコは暑い国だという先入観を抱いていたが、冬のトルコは寒い。遠くの山の頂は、すでに雪をかぶっている。
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 夜中に目が覚めた。足が冷たくて、眠れなくなった。テントの内側の薄っすらと氷が張っている。もちろん水筒の水は凍っていた。
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 アンカラでもイラク大使館へ行き、再度ビザのことを聞いてみた。やはり、1か月以上は待たなくてはいけないと言われ諦めた。
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 アンカラでは、樹木というものがなくなってしまった。緩やかな起伏が続くが、その景観は砂漠と変わらない。小さな町でも砂ほこりが舞い上がっていた。
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 次の町で買い物をしたら、パンクしてしまった。町の中だから、子供がぞろぞろ群がってくる。見世物だ。やがて大人も集まってきた。なんとか修理して、タバコを一服する。子供はよく観察しているのだ。あんな安物のタバコを吸っていると誰となく告げたのだろう。一人の青年が「これ吸いなよ。」と高そうなタバコを勧めてくれた。
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 写真を撮ってやろうとしたら、大騒ぎになり、バイクが見えなくなるぐらいに、ぎっしりと並んでしまった。

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 それから100キロばかり進んで、幹線道路から逸れたところでキャンプした。しばらくすると牧童がやってきて、まずタバコをくれという。もちろんやらない。そのうち私の荷物を物色し始めた。そして、ザックにぶら下げてあった小さなカウベルを見つけた。ひどく気に入ったらしい。今度は、その牧童の父親らしい男が現れて、そのベルをくれという。もうそのしつこいことに飽きれた。くれくれと迫るのだ。そのうち、テントに火をつけてもよいのかとその真似をして脅すのだ。私も腹が立たので、とうとうその親父の胸蔵をつかんで、怒鳴ってしまった。欲しくなったものは、どうやっても手に入れるだ、という考えにぞっとした。
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 翌朝、凍ったテントを片づけていると、一人の男が汗をかきながら飛んできた。なぜだか分からないが怒鳴っている。言葉が通じないので適当にやり合っていると、また別の二人の男がやってきたて、3人でわめき始めた。この近くで、羊かなんかの家畜が殺されたらしい。ついて来いという。その羊飼いの馬鹿どもは羊が殺されて、誰でもよいから犯人を仕立てたいらしい。たまたま、私が近くでキャンプしていたものだから、私を犯人にした。その現場を見せて白状させるつもりらしい。私が羊1頭を殺して、焼いて食べたとでもいうのか。
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 「よし、ついて行ってやろうじゃないか。」といって一歩踏み出すと、私の顔つきに驚いたのか、。「もういい。行って良い」という仕草をする。何が行って良いだと、最初の男に詰め寄ると、やはり羊飼いだ。すぐに石をつかむ。腹が立って仕方がなかったので、胸蔵をつかむと3人がかりで私を押し倒そうとする。3人を相手に喧嘩をする自信はなかったが、私が180センチ以上の大男で、汚い革ジャンパーを着ているので、彼らはにらむだけで、それ以上は手を出さなかった。
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 それにしても恐ろしい。もし、私がか弱い男だったら、半殺しになっていただろう。昔の閉鎖された田舎では、こんなふうにして、よそ者が殺されたのではないか。彼らは自分たちの村の人間など疑う前に、よそ者を疑う。たぶん羊を殺したのは隣近所の連中に決まっているはずだ。・・牧童の民の野蛮さを思い知らされた。
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 次の日もパンクにあってしまった。シバスの町では、バイクで旅行中のドイツ人の青年に助けを求められた。彼はエンジンがかからなくて困っていた。引っ張てやるとエンジンはかかるが、キックだけではだめだった。彼は予定が同じなら、一緒に行かないかという。また、安いホテルを知っているけど、一緒にどうだという。困っている若者をそのままにもできないので、しばらく行動を共にすることにした。
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 エンジンをかけるたびに、私のバイクで引っ張るのだ。私は、彼に同情して行動を共にするのだが、彼はそう思っていないらしい。たまたま私が同じコースなので、引っ張てくれていると思っているのだ。そんなことで、私はだんだん彼の態度が気にいらなくなった。
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 2000メートルを超す峠を3つも越えなくてはならない。雪と寒さが心配だった。霜で山々は真白になっていた。あまりの寒さに写真撮影もできない。

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 ドイツ青年マリは、オイル缶を落としたまま走っていったり、ガス欠になって私の予備ガソリンをやるなど、少々世話のやける道ずれだった。アスファルト舗装では、私は80キロのスピードで走るのだが、彼は飛ばしてどんどん先へ行った。そして、先の食堂で飯を食っている彼を見つけては、引っ張てエンジンをかけてやりながら進む始末だ。しかも、彼は悪路では極端にスピードが落ちた。たびたび私は、彼が追いついてくるのを待ってやった。彼が転倒したりしてエンジンを止めてしまったら、彼は困るだろうと思ったからだ。
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 2つの峠を越えて、良い道になったところで、ドイツ青年はどんどん先へ行ってしまた。私を待っているようなことはない。3回続けてパンクしたときは夕方になっていたので、そこでキャンプしてしまおうと思った。しかし、彼が心配するだろうし、私がいなくてはエンジンが掛けられないだろうと思って、薄暗くなった山中でパンクを直し先へ急いだ。いくら行っても彼の姿が見当たらない。予定のエルツルムの町の入り口に着いても彼がいない。彼に自分の気持ちが全く通じていないのにがっかりした。
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 もう夜も迫って、キャンプ場所を見つけるのも大変なので、町へ入った。ホテルの若者たちは、大歓迎してくれた。バイクを中庭に置くように勧め、すぐにストーブの火を強くしてくれた。そして、温かいミルクティーと彼らが食べていた食事を私に勧めてくれた。嬉しかった。
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 もう、マリ青年のことは忘れることにしようと思っていたところに、前の通りを聞き覚えのある独特の排気音が通過していくのを聞いたので、すぐに飛び出した。私がいなくては彼はエンジンをかけられないのだ。ホテルへ連れていくと、若者たちは彼を歓迎してくれた。
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 私たちの部屋に若者たちが遊びに来た。私はみんなでおしゃべりしようと思っていたのに、しばらくするとマリは、ここは俺たちの部屋だから、もう出て行ってくれと追い出してしまった。
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 翌朝、ホテルの若者たちは朝食を用意してくれた。マリも喜んで食べていたが、別にそれほど感謝しているふうでもない。出してくれたから食べてやっていると感じだ。彼は旅で知り合った者にいくら親切を受けても、その人たちの住所録を待たないという。見上げたものだ。私はホテルの若者からイスラム教の珠数をもらい、住所を交換し合って出発した。
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 山道にかかると、悪いガキどもが石や棒を持って待っていた。車やバイクに石をぶつけるのだ。マリは以前、この道を通ったことがあり、その時は窓ガラスをガキどもが投げた石で割られてしまったという。その時にガキどもを追いかけて捕まえたところ、村人に取り囲まれて、怖い思いをしたという。まるで無法地帯だ。ただ村の子供や村人を追い回す奴は、敵なんだ。
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 マリ青年の利己主義と行動はさらに目立ち、私はイラン国境を前にして、これ以上一緒に行動するのは嫌になっていた。一緒に走っているのに、彼はさっさと先へ行ってしまい、イラン国境に着いた時には彼の姿は見えなかった。すでに入国してしまったのかと思っていると、どこからか現れた。
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 その時、イランは革命が勃発して不安定だったが、幸い、私たちは時期がよくて、暴動も一段落していて国境は開いていた。入国手続きを終えたとき、すでに3時過ぎだった。彼は200キロ先のタブリッツの町まで行こうという。私は自分のペースを守るために、このマクの町に滞在することにしたが、彼は先へ行くというので、私たちは別れた。私はほっとした。肩の荷を下ろした気分だ。彼はトルコで私を捕まえたように、次の町でもすぐに別のバイク野郎を見つけられると考えたのかもしれない。
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 暗くなってから、ここの谷間の町に横殴りの雪が降り注いだ。彼は、ちゃんとタブリッツの町にたどり着いたのだろかと心配になった。
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 次の朝、町は雪で覆われていた。私は両足を出してノロノロ進んだ。タブリッツの100キロ手前でマリ青年を見つけた。雪の積もった道路端で、彼は牽引用の細いひもを持って震えながら立っていた。その姿は哀れだった。やはり昨夜の雪で進めなくなり、雪の中でキャンプしたという。もう一度、引っ張ってエンジンをかけてやる。
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 雪が降り続き、彼は遅れに遅れた。私は町に入ったところで待っていたが、いっこうにやってこない。エンジンが止まって困っているのではないかと心配になり、引き返した。なんと彼は町の入り口の食堂で、何かを懸命に食べているではないか。雪の吹き溜りを超えて、その店に入ると、彼は「パキスタンまで車で行く連中と親しくなったから、バイクも運んでもらうよ。」と私の心配をよそに、そんなことを言ってくれた。
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 もう、嫌だ。すぐに店を出て、一人で雪の降る道を出発した。あんな奴がバイク仲間だと思うと腹が立つ。
 (マリ青年はバイク野郎ではないのです。ただ、インドやパキスタンへイギリス製バイクを持ち込めば、おんぼろでも高く売れるという動機で、バイクに乗ていたのです。)
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 先の峠では雪のために車がスリップして進めず、仕方なく、引き返してホテルに入った。
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 翌朝は、雪がタイヤと泥除けの間に詰まって凍ってしまっていた。それを溶かして出発する。峠は、やはり車でごった返していた。その間を縫って、峠を越えた。
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 その雪も首都テヘランまで来るとなくなった。

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 テヘラン市内の交通渋滞は、日本どころではなかった。文字通り交通地獄で、バイクでさえ前へ進めなかった。ホテルに着いた私は、多くの韓国の人たちと知り合った。南部の石油基地から逃げてきた人たちだ。イランの暴動が完全な外人排斥運動になり、宿舎などに投石されて逃げてきたという。
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 一応、暴動は納まっていたが、市内のあちこちの銀行や劇場が焼かれていたのを見た。広場には戦車が横たわり、ガススタンドの屋根の上には機関銃が並んでいた。そのスタンドで、また、バイクが故障してしまった。私は機関銃が気になって。落ち着いて修理もできなかった。
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 ホテルにはイタリアのバイク野郎が泊まっていた。イタリア製のモトグッチに乗っていたが、ここまでの雪道で苦労したらしい。もう雪道を走るには御免だといい、この先のアフガニスタンは更に雪が深いからバイクを税関に置いていくと言っていた。しかし、それは考えものだ。こんな治安の不安定な国では、いくら国の機関である税関といっても、信用できるわけがない。ないよと言われたらそれきりだ。
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 私も雪が心配だったので、南部の砂漠地帯を通ってパキスタンへ直接入国するつもりだ。そのルートを彼に教えたが、悪路を行くのも嫌だというのでは仕方がない。そして2週間後にイラン政府は転覆した。彼のバイクはどうなった?。

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オートバイの旅(50)Pakistan-1978/11/30 [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(50)Pakistan-1978/11/30

 

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1978/11/30          大きな菩提樹の下
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 パキスタンはイランとは違て人々は非常に親切だ。国境の役人は手続きを親切に教えてくれた。さらに税関事務所はここから100キロ先だとか、両替はその角の家でやっているとか・・・。私のパキスタンの第一印象は最高だ。
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 ところが、東へ行くにしたがって、衛生状態が悪くなっていった。町の食堂は汚く、ハエの大群には全く閉口した。風習も変わり、ミルクティーは、ポットに入れて出されたが、茶とミルクの割合は1対2ぐらいで、汚れた瀬戸物の茶碗で飲む味はダメだった。
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 国境から、延々と砂漠の道が続いた。あちこちに雨季の被害が残っていた。道は半分も削られ、橋も流されていた。とても雨季には通れそうにない。
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 荒涼とした道を500キロほど進んで、クエッタの手前の町ヌシュキに到着。オアシスの町で、緑があって、人間がいる。砂漠の中の道を進んでいるときは、本当に緑や人間が恋しくなる。ここからクエッタまでは急勾配の坂が続き、バイクはあえいだ。気温がどんどん下がり、また、羽毛の手袋をはめる。
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 クエッタは、ある程度の規模の町で、活気もあった。たくさんのアクセサリーを飾りつけたオート三輪のタクシーが忙しそうに走り回っている。

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 銀行へ行ったところ、店長に奥に来るようにと誘われて、ミルクティーをご馳走になる。その時に両替を頼んでおいたら、ミルクティーを飲み終える頃に、両替されたお金が私の手元まで届けられた。この銀行のサービスは他の支店でも同じだった。
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 パキスタンに入ってからは、イランで見た丸型やわらじ型のパンがなくなり、代わってチャパティが登場した。これは冷えてしまうとまずい。食堂の飯が安いので、旅に出て、初めて毎日食堂で食事をするようになった。カレー粉で煮た野菜やジャガイモをチャパティでつかんで食べるのはうまい。
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 パキスタンの人たちは、本当に親切で、私は、ほとんど毎日食事代を使うことがなかった。食堂へ行き、料理の鍋などを覗いていると、店主が出てきて「まあ。ここに座れ。」といって注文もしていない料理を食べさせてくれるのだ。もちろん、店主のおごりで、食後はミルクティを出され、更にハッシシまで勧められた。
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 町の人たちも気軽に食堂や家庭に誘ってくれた。ポリスも私のバイクを見つけると、ストップをかけ、ミルクティーを飲もうと誘ってくれるのである。
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 クエッタからインダス川を南下するにつれて、緑が多くなった。そして、インダス川のすぐそばまで来ると、大規模な灌漑のため、家のあるところと道路以外は、ほぼ水の中だった。この時はキャンプするところを見つけるのに困った。どの家にも庭らしいものは見当たらない。
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 早朝、このインダス川周辺は、もやがかかり、その中を牛車がゴトゴトと畑へ向かう情景は感動的だ。緑は本当に素晴らしい。日本の自然が、いかに恵まれているかをつくづく感じた。
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 景色はいいのだが、牛車の渋滞には閉口する。そして、道路は牛糞だらけなのだ。何もかも結構という訳にはいかない。

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 コレラで有名になったカラチに到着。絶対に生水は飲まないと思っていたが、食堂に入ってみると、誰もがコップの水をうまそうに飲んでいるし、あのカレー料理を食べた後は、水がぜひとも欲しいものだ。思い切って私もガブガブ飲んだ。
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 カラチの町は、これまでのパキスタンのイメージを変えるほど良かった。
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 インドの旅に備えて、ヤマハの作業場を使わせてもらって、バイクの整備をした。洗車をメカニック見習の青年に任せたら2時間もかかった。私は半日で終えるつもりだったので、自分でやることにしたが、皆が見守っているし、彼らの技量を疑うのも悪いと思って手伝ってもらう。マフラー、シリンダー、ピストンなどを外して、カーボンの掃除をし、更にクラッチ版、リードバルブの点検をした。1時を過ぎるとメカニックたちが帰り始めた。考えてみると、この日は木曜日で、イスラム社会では土曜日に当たることを忘れていた。日本の技術者から修理を習たという青年が残って手伝ってくれた。
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 スロットルケーブルを交換して作業が終わると、メカニックの青年2人が食事に誘ってくれるのでレストランへ出かける。店内が大理石張りの豪勢なところだった。彼らが私より安いものを注文したところを見ると、すこし、無理をして歓迎してくれているようにみえた。
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 ヤマハの隣にある専門学校の経営者に話しかけられ、学校の宿直室に泊まることになった。彼の家に行くと、子供が7人もいる。夕食は、まず主人と大学生と高校生の男の子の4人で、次に小さい弟たちがテーブルに着いた。女性は男の前では食事ができないのか、姿を見せなかった。
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 子供たちはあまり口を聞かず、静かに過ぎた。私が話しかけてもあまり話さない。パキスタンの上流家庭のしつけなのかもしれない。
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 カラチからインダス川に沿って北上し、ペシャワールへ向かう。

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 沿道の飯屋には、ベッドのような網椅子が並んでいる。その上に座って休んでいると、店の親父がミルクティでもどうだと、出してくれる。
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 キャンプをするために道路端の民家へ交渉にいくと、そこの親父が英語で対応し、自分の家に来いという。ついて行くと、そこは墓地のようだった。大きな菩提樹の下が祭壇になっていた。主人がそこに座り、私をすぐそばに座らせた。他の人たちも囲炉裏を囲んで座り、ミルクティーを飲み、そして、ハッシシが回された。
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 そこはどうやら新興宗教の集会場のようだった。広場には幟が上がり、銀紙が張り巡らされていた。変なところにもぐり込んでしまったようだが、面白そうだったので、そのまま居座り、夜遅くまで祭壇の前で、ゴロゴロして過ごした。
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 インダス川周辺は水蒸気が多いようで、朝起きると霧でテントが濡れている。川が一本あるだけで、今までの砂漠地帯の気候がこんなに変化するものかと驚いた。
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 パキスタンでは、民家の庭でキャンプすると、夕食と朝食が出された。また、食堂へ行くと店主や客がおごってくれた。非常に嬉しかった。しかし、一方で、プライバシーなんていうものはないようで、自分のすべてを公開しなくてはならない。時どき、やりきれなくなることがある。

 人々は朝が早い。私がそろそろ起きようかと思っていると、「いつまで寝ているんだ。」といってテントをめくる。私が叱ると、今度はテントの空気穴から覗く。やめろといっても平気だ。この国で、ひとりで落ち着けるところは、テントの中だけと思っていたのに、どこもない。キャンプをさせてもらて、食事を提供されて、こんなことは言える立場ではないが、早く逃げ出したい気持ちになった。挨拶もそこそこに出発する。
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 この日も私の機嫌は悪かった。食堂に入ると、またいろいろな連中が話しかけてくる。返事をするのも億劫だ。最初の頃はヨーロッパと違って、だれも彼もが話しかけてくるのが嬉しかった。でも毎回「なんていう名前だ。どこから来た。」の連続で、その対応に疲れた。
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 もう異国の風土、人間、文化・・・あらゆるものと衝突するのに疲れたのかもしれない。今までは、それぞれの国の人たちとうまくやってきたつもりだったが、もう限界に来たのだろう。肉体の疲れと同時に、精神的にもカルチャショックが積み重なって破綻しかかっているのだろうか。・・・「異国」に疲れた。
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 昼、食堂に入る。バイクを触るなといっても触る。道路を走っていると、トラックやバスが追い越してきて急に前に割り込む。子供が目の前に飛びだす。トラクターが農道から急に飛び出す。こんなことは、いつものことで慣れてしまっているはずなのに、いちいちカンに触るのだ。「この交通ルールも知らないバカたれども・・。」と叫びたくなる。
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 食堂で、むしゃくしゃしている私に、気の弱そうな若者が「何か飲まないか」と話しかけてきた。その前に私が食べた分まで払っていた。英語が話せる若者だったので、話をしているうちに、気分が少しずつ、ほぐれていった。
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 ムルタンの町の手前で、事務所のような建物があったので、その裏でキャンプさせてもらうことにした。事務所のようなところだから、変な男もガキもいない。事務所の人からミルクティーをご馳走になった。
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 今夜こそは人に悩まされることもなく、落ち着くことができると思った。ところが彼から今夜映画を見に行くから一緒にどうだと誘われた。OKしたのが間違いのもとだった。結局は彼の家で泊まることになり、その家に着くと、近所の大人ばかりか、子供までがぞろぞろやってきた。今夜も疲れるぞと思った。
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 彼はその辺りの地主のようで、皆が挨拶をしている。風呂に入れと言われ、畑の中へついていくと、大きな灌漑用の井戸ポンプ場があった。その大きな水槽に入れという。冗談じゃない。こんな畑の中で、裸になれるかと思った。
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 家に帰ると、私が寝る部屋には大勢の人がぎっしりと集まっていた。そして、私が何かしゃべるのを待っている。ほとんどの人が英語を知らないし、ただ黙って私を凝視するする人たちに何をしゃべれというのだ。食事が出た。米の飯と塩辛のようなものに、ジャガイモと大根の輪切りだった。
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 食後、英語のできる人が来た。獣医だというその青年は、「なんで、そんな怖い顔をしているんだ。」という。そんなこと答えられるか。こんな狭い部屋に変な奴がいっぱい集まって、じろじろと人のことを眺めては勝手にガヤガヤやっているんだ。
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 「疲れているんだ。そろそろ寝かしてくれ。」と言いたいのだが、こちらは親切なもてなしを受けている身だ。観念して旅行中の写真などを見せて、時間をつぶした。その写真はアフリカの村とか風景ばかりで、アメリカやヨーロッパのモダンな写真はなかった。村人はあまり興味がなさそうだったが、それでも熱心に見ていた。

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オートバイの旅(51)Pakistan-1978/12/13  [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(51)Pakistan-1978/12/13

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1978/12/13        散髪屋
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 パキスタン中央部にあるムルタンは大きな町だった。ロバや馬や牛の荷車とオート三輪のタクシーなどがごちゃごちゃ走り回り、忙しそうだ。銀行へ行くと、やはりミルクティーを出してくれた。そこで20ドルだけ両替する。
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 相変わらずバイクのクラッチ板の切れが悪いので、、ヤマハの作業場を借りて点検をする。店のメカニックが手伝ってやろうかといってくれたが、自分のバイクのコンディションを完全に知っておきたいので断る。クラッチの異常はやはりオイルの粘度が高すぎるようだった。カラチのメカニックが4輪用のギアオイルを入れたのかもしれない。普通のモービルオイルに入れ替えると、スムースに切れるようになった。
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 3時過ぎに整備が終わり、この日は若いメカニックの家に泊まることになった。シャワーを浴びたいかと聞かれ、散髪屋へ連れていかれた。そこにシャワー室があるのだ。ついでに髪も切ったらどうだと勧められて、少し心配だったがやってもらった。
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 相手はパキスタンの理髪師だ。不吉な予感がしたが、安の条、見事なおかっぱ頭にされてしまった。髭剃りもすごい。力を入れてするので、顔が切れてしまうのではないかとハラハラした。散髪屋の男はおかっぱ頭にしようとして櫛を入れる。こんなふうに横分けしてほしいと手で分けて見せたら、相手は怒ってしまい、もう終わりだという。ひげを剃っている最中でなくてよかった。どちらが客かわからないが、気分は朝風呂に入った気分で、すがすがしかった。 
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1978/12/17           ヤマハRD350
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 ペシャワール周辺はレンガ工場が多かった。古タイヤを燃料としているので、空は雨でも降っているのかと思うほど、どんよりとしていた。
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 街中は、ごちゃごちゃと物が散らばり、ロバ、馬、牛がノロノロと行き来するが、これらの動物はよく働いている。山ほどのレンガを積んだ荷車を引っ張ている。こき使いすぎなのか、牛が私の目の前でひっくり返り、のびてしまった。飼い主が立たせようと、首輪を引っ張ても、もう動かない。ラクダも多く使われているが、くたばりやすいのか、その死体があちこちの道路端に転がり、鳥が肉をついばんでいる。
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 町の出口でポリスに停められた。例によってミルクティーでもどうだと誘う。毎度のことなので、喜んでいただく。
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 そのポリスのバイクは、ヤマハRD350だった。パワーがなくて修理するにもパーツがないという。よく見るとエアクリーナがない。それじゃこの砂ほこりの多い町では、シリンダーは傷だらけだろう。それにシリンダーヘッドからはオイルが流れている。ボルトが緩んでいるのだろうと、少し修理をしてやることにした。
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 どこで修理したのかと聞くと、町の小さな修理屋だという。ひどいものだ。スパークプラグも変なものが付いており、左シリンダーヘッドのネジ穴はつぶれてしまっている。オイルポンプ、点火時期の調整をした。ミッションには4輪車用のギアオイルが入っており、切れが悪い。パキスタンの車は、ほとんどが半分のパワーで走っているのかもしれない。恐るべきメカニックだ。
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 バイクをいじり始めると、時間を忘れてしまう.こんなガラクタのバイクと付き合っていたら1日ぐらいすぐにつぶれてしまう。リードバルブも狂っているだろうし、シリンダーの排気ポートもカーボンでいっぱいだろう。キャブのフロートレベルも調整が必要だろう。それよりもエアクリーナがないから砂を一杯吸い込んで、シリンダーはもう傷だらけだろう。
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 ポリスは、私がバイクの整備をしている間、たえずミルクティーを運んで来たり、タバコに火つけて私に差し出したり、今夜は俺に家に泊まれと非常に気の使いようだ。

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オートバイの旅(52)Pakistan-1978/12/18  [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(52)Pakistan-1978/12/18

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1978/12/18         ミルクティー
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 パキスタンの首都ラワルピンジは、少し小高いところにあった。町はパキスタンとしてはきれいにできていた。計画的に作られたニュータウンだ。
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 そこからラホールヘ行くか、カラコルム山脈のナンガバルバットを見に行くか考えた末、まだ、時間はあるので、マリーへ向かう。町を離れると、すぐに山道だ。車のチェックステーションで道を尋ねたら、また、ミルクティーだ。
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 どんどん山道を登る。もうすでに12時で、ちょっと遅いが、マリーまで行けば、ナンガバルバットが見えるから、すぐ引き返すつもりでいた。山道はだんだん険しくなり、バイクはオーバーヒートしてしまった。
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 ちょっと山道を甘く見すぎたようだが、もう後へ引けない。バイクを時どき休ませたりして進む。マリーの近くになると道は有料になり、1ルピーも取られた。しかし、道は良くならない。気温も下がってきたが、今の時期としては暖かい。
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 どうにかマリーに着いたが、はっきりと雪をかぶった山々は見当たらない。ともかく見える地点まで行くことにして、アボタバッドを目指す。さらに尾根道を登ると、松の木が生え、今までとは違た景観になった。土地の人たちは、その険しい道路にそって家を建て、だんだん畑を作って生活している。
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 その尾根の頂上に着くと、遠くに雪を被った山々が見えたが、どれがナンガバルバットか分からない。遠すぎるのだ。
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 その頂上を過ぎると急勾配の下り坂だ。ブレーキが十分にきかない。3時を過ぎると陽が急に落ちていく。早く、キャンプする場所まで進まなくては・・・。この山の中では寒くてたまらない。
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 アボタバットの近くまで来ると、ポリスのチェックステーションがあったので、キャンプさせてもらいことにした。谷の中の村だから、テントを張れる場所もなかったので、事務所の中で寝かせてもらうことにした。
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 ぞろぞろと村人が集まり始めた。中にはポリスもいるようだが、服装がみんな同じなので区別がつかない。その中の一人が理解に苦しむ質問をした。返事に困った。英語が話せるかと聞く。役人たちは、私の身分が分からないので、どいう態度で接したらよいか迷ているようだった。ここでは、英語が理解できるかどうかが、まず、人間を区別する最初の基準になっているらしい。次は学歴と職業だ。それによって、私の身分を判断して対応を考えるのだ。無職だといったら、バカにされてしまう。医者といっておくのが一番良い。どこでも尊敬される。
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 別の男がやってきた。ポリスのようでもあったが、普通の服だったので、いい加減に話を合わせておいた。彼はそのステーションの裏のポリスの学校の教官らしい。ここでは身分の高い階級で、私に敬意を表明するために登場したようだ。
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 私の方が背が高いし、着ぶくれしていたので、よけい大男に見える。私は英語を話すのが下手でも、慣れてしまっているので、声も大きい。その教官は、他のポリスの前でもあるので、ちょっと格好つけた。私のバイクに足をかけ、もたれるようにして話し始めた。一方私は、その男のメンツを立つようにしてやろうと、彼の職業などを聞いて、大いにびっくりして見せた。
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 彼も気をよくしたらしく、私を学校へ案内して、食堂でご馳走してくれた。その後で宿舎を案内してくれたが、各ベッドに二人の男が仲良く並んで座り、楽しそうに雑談していた。手をつないでいる人もいる。気味の悪い気分です。ここではボーイフレンドのいない男はいないかもしれない。その教官は、ある男の腰に手を回して、俺のボーイフレンドだと自慢げに紹介した。

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1978/12/19        元軍人
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 アボタの町でミルクティーを飲む。ミニバスから降りてくる少年たちが、雪の塊を持っている。この町では雨だが、ちょっと上がれば、雪になっているらしい。
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 そのカフェで16歳ぐらいに少年が、いきなり「名前は?。どこから来た?。」どうして見ず知らずの人間に、突然名前を聞くのだ。ガキから「ホッチャネーム?」なんていわれて頭にくる。その感じは「お前、なんちゅう名だ。」で、そんなガキに返事をしてやる気持ちはない。それに答えてやっても、それ以上の言葉を知らないのが普通だ。
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 ラホールへ向かう。十分な幅員がある道路だが、両端が非常に凸凹しているので、バスがおおきな顔をして真中を突っ走て来る。対向車などはまるで無視だ。相手が避けるものだと思っている。ところどころにトラックが引くりかえっているが、バスの姿はない。
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 ラホールまで150キロ地点で、事務所のような建物を見つけ、キャンプさせてもらう。この地域の人たちは少し違っていた。ガキどもは相変わらず好奇心が強くてうるさいが、大人はあまり集まってこない。たぶん幹線道路だから、外人旅行者に慣れているのだろう。10人ぐらいの人がいたが、ひとりの青年を除いて、遠くからこちらを見ているだけだ。身分が違うのかもしれない。
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 その建物の守衛をしている元軍人だったふたりの男に世話になった。彼らが夕食を灯油のキャンプ用ストーブで作り、灯油ランプの下でご馳走になっているとき、彼らが話してくれた。5年ほど前にバングラデシュから来たが、あちらでは1週間も飯が食えなかったという。彼らは、こうして毎日飯が食えることに非常に喜びを感じると言っていた。その大切な食べ物を、もっと食べろと進めてくれる。
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 「食べる」「食べられる」ということを本気で考えさせられた。日本では、食べるだけの金なら、仕事すればすぐに手に入る。しかし、彼らは、ほとんど仕事もないし、食べ物もない時期を過ごしてきたひとたちだ。

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オートバイの旅(53)India-1978/12/21  [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(53)India-1978/12/21

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1978/12/21   レンガ工場
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 ラホールの南80キロにあるカスールからインドへ入国するつもりで行ってみたが、パキスタンとインドの関係がよくないので、閉鎖されていた。しかし、ラホールに回ると、パキスタンの出国もインドへの入国手続も簡単だった。荷物検査もなかった。しかし、バイクのカルネ(無税通関書類)のコピーを何度も見るものだから、時間がかかってしまった。
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 2時過ぎに国境事務所を離れ、腹が減ったので、インドの食堂に入った。パキスタンと全く同じ店構えだった。値段が高い。ロティ(波状のパン)がパキスタンの半分の大きさなのに高かった。料理は同じようなものだった。
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 インドは、乞食がいっぱいで汚らしいというイメージを持っていたが、パキスタンと同じだ。やはり人間がいる大地だ。
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 レンガ工場でキャンプ。夜、工場の人がインド風の小さなチャパティとおかず2つを、きれいなステンレスの皿に入れて持ってきてくれた。真っ暗で何を食っているのか分からなかったが、いつものトウガラシの利いた料理だ。
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1978/12/22   人で渋滞している
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 デリーへ向かう幹線道路は、朝の通勤でごった返していた。車はすくないが、野菜やいろいろな品を町の市場へ運ぶ馬車、牛車、自転車、それに徒歩の人たちが、めちゃくちゃに町へ向かって歩いている。
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 アルミスタールの町は、ものすごいスモッグだ。朝の太陽も黄色なっている。あまりにもすごくて息苦しい。日本のスモッグなど目じゃない。それが郊外に出ると、朝もやにかすんだ太陽になる。
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 デリーに近づくにつれて、インドに人が多いことを実感する。10キロも走れば、すぐに次の町に着き、町の中は人で渋滞している。どの町も市内に入れば道幅は広くなるのだが、歩行者で身動きが取れなくなる。
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 道路を走っているのは、トラックやバスが主で、乗用車は少ない。市内ではインド製のジャワとシングルエンジンのトライアンフが走っていた。250以上のバイクは金持ちしか買えないようだ。50や70のバイクを作ればよいのにと思う。しかし、人で混雑している町にバイクが増えれば、人が多いから交通事故の多発が目に見えている。信号機の色の意味も知らないようだ。
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 ブタ、牛、犬、ニワトリが道路を歩き、人間は車の音を聞いても、頭に荷物を載せたまま、後ろも見ずに左端から右端へ斜めに横切っていく。

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 道路の舗装はパキスタンよりは良いが、バスやトラックがパキスタンと同じように道路の真中を飛ばしていく。
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 インドで初めてガソリンを補給した。1リットル3.48ルピーだった。US1ドルが8ルピーだから、ほとんどヨーロッパ並みの高さだ。インドの物価を考えると、べらぼうに高い。バイクや車に乗っている連中は本当に金持ちなのだ。
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 2日目、農林試験場でキャンプさせてもらった。一家族と2人の青年が住んでいた。英語があまりできないが親切にしてくれた。
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 滞在日を延ばして、クリスマスをここで過ごすことになった。昼過ぎ、仕事の終わった青年の一人を連れてドライブへ出かけた。大きな家の前にロイヤル・エンフィールド(4ストローク、シングルエンジン)があったので足を止めると、窓から若者がお茶でもどうだ。と声をかけてくれた。初めて、インドのハイクラスの家を覗いた。家族の男たちは2階の屋上で日向ぼっこをしていた。男兄弟が全員一緒に住んでいるようだ。
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 一緒に来ていた青年が中に入ってこないので、無理に呼び入れた。ミルクティはその青年にも出してくれたが、私にタバコを進めても、連れの青年には顔も向けない。これがカースト(身分階級)なのだろうか。言葉も交わさないのだ。
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 すこし分かったことは、この見るからにインド人らしい顔つきをした家の人たちは身分が高くて、そうでない顔つきで、ほとんどひげを生やしていない背の低い人たちは、身分が低いようだ。嫌な思いをする前に、そこを退去した。連れの青年は、そういう差別に慣れているようだったが、彼に嫌な思いをさせてしまった。
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 次の日、インド製のトライアンプの新車に乗せてもらた。初めてなので、エンジンがうまくかからない。チェンジレバーとブレーキレバーが逆についていた。4ストロークエンジンらしく、のろのろと走り出す。シフトに手間取り、エンジンが止まってしまった。キックしてもかからない。このバイクは完全なインド製だが、3.40年前の英国製バイクの味がそのまま残っていて、排気音はあのトライアンプ・サウンドだ。バイク野郎ならば、こういうバイクを乗りこなしたいものだ。
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1978/12/26   聖地ベナレス
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 オールドデリーは、毎日がお祭りのような人込みだ。「人間が生きている世界」というようなものを感じる。車や私のバイクは人の後ろをノロノロと進むが、自転車タクシーは、ガチャガチャと鈴を鳴らして勢いよく走っていく。
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 日本大使館で実家からの手紙を2通受け取った。その中にサハラ砂漠を越えていた時の写真が入っていた。地平線の続く砂漠の中を小さなバイクが砂煙をあげて走っている。
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 12月のインドは、一番寒い時期だ。毎朝、寒さを感じたが、それでも昼になると、どんどん気温が上がってくる。
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 インドの道路は、2車線の幅員がある道路でも、アスファルト舗装が1車線分しかないのだ。だから、対向車があるときはお互いに譲り合えばよいのに、なかなかそうはいかないらしい。接触事故でトラックが畑の中に転がっているのをよく見る。
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 ボンベイへ行き、また、デリーに戻った。気がかりになっていたオーストラリアのビザが発給された。往復の航空券がなかったが、6か月滞在のビザが取得できた。係員はこれは特別だよといった。マドラスからマレーシアへの船の予約も取れた。ロシアの客船だ。
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 カトマンズへ行く途中、ヒンズー教の聖地ベナレスで、ひとりの日本人青年に会った。彼は歌手で、自分のレコードをインダス川に流したという。私はあまりインドには引かれないが、彼は完全にのめり込んでいた。彼はヒンズー教に取りつかれ、精神異常になったらしい。インドからヨーロッパまで放浪し、ドイツで精神異常者として保護されたという。両親がドイツまで迎えに来て、日本の精神病院に入れられたらしいが、今またこうしてインドに舞い戻ってきたという。インドはあらゆるものを受け入れてしまう世界なのでしょう。

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