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オートバイの旅(49)Torkey-1978/11/08  [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(49)Torkey-1978/11/08

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1978/11/08        イラン国境
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 朝、8時になって、やっと明るくなった。朝からアンカラへ向かう幹線道路は車でいっぱいだ。アダパザンの大きな町で買い物をする。オリーブの漬物がフランスパンによく合うので買ってみた。100グラム、10円ぐらいだ。アルジェリアの病院ではほとんど食べなかたが、だんだんとその味が分かってきた。砂糖とマーガリン、タバコを買ったが、わずか1ドルちょっとだった。
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 10時過ぎに町を離れて、アンカラへ向かった。だんだん山道となり、低地では、ほとんど樹木を見なかったが、山が深くなると意外と樹木がある。松もよく見た。しかし、寒い。そんな寒い峠の頂上で昼食にする。オリーブの漬物とまだ少し温かいパンだ。水なしでもどんどん食べられた。オリーブの実は黒いが、梅干しのような感じだ。その渋みと塩加減がうまかった。ギリシャ、トルコの食料品店には、漬物がたくさん並んでいる。
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 ガイドブックの写真などで、トルコは暑い国だという先入観を抱いていたが、冬のトルコは寒い。遠くの山の頂は、すでに雪をかぶっている。
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 夜中に目が覚めた。足が冷たくて、眠れなくなった。テントの内側の薄っすらと氷が張っている。もちろん水筒の水は凍っていた。
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 アンカラでもイラク大使館へ行き、再度ビザのことを聞いてみた。やはり、1か月以上は待たなくてはいけないと言われ諦めた。
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 アンカラでは、樹木というものがなくなってしまった。緩やかな起伏が続くが、その景観は砂漠と変わらない。小さな町でも砂ほこりが舞い上がっていた。
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 次の町で買い物をしたら、パンクしてしまった。町の中だから、子供がぞろぞろ群がってくる。見世物だ。やがて大人も集まってきた。なんとか修理して、タバコを一服する。子供はよく観察しているのだ。あんな安物のタバコを吸っていると誰となく告げたのだろう。一人の青年が「これ吸いなよ。」と高そうなタバコを勧めてくれた。
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 写真を撮ってやろうとしたら、大騒ぎになり、バイクが見えなくなるぐらいに、ぎっしりと並んでしまった。

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 それから100キロばかり進んで、幹線道路から逸れたところでキャンプした。しばらくすると牧童がやってきて、まずタバコをくれという。もちろんやらない。そのうち私の荷物を物色し始めた。そして、ザックにぶら下げてあった小さなカウベルを見つけた。ひどく気に入ったらしい。今度は、その牧童の父親らしい男が現れて、そのベルをくれという。もうそのしつこいことに飽きれた。くれくれと迫るのだ。そのうち、テントに火をつけてもよいのかとその真似をして脅すのだ。私も腹が立たので、とうとうその親父の胸蔵をつかんで、怒鳴ってしまった。欲しくなったものは、どうやっても手に入れるだ、という考えにぞっとした。
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 翌朝、凍ったテントを片づけていると、一人の男が汗をかきながら飛んできた。なぜだか分からないが怒鳴っている。言葉が通じないので適当にやり合っていると、また別の二人の男がやってきたて、3人でわめき始めた。この近くで、羊かなんかの家畜が殺されたらしい。ついて来いという。その羊飼いの馬鹿どもは羊が殺されて、誰でもよいから犯人を仕立てたいらしい。たまたま、私が近くでキャンプしていたものだから、私を犯人にした。その現場を見せて白状させるつもりらしい。私が羊1頭を殺して、焼いて食べたとでもいうのか。
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 「よし、ついて行ってやろうじゃないか。」といって一歩踏み出すと、私の顔つきに驚いたのか、。「もういい。行って良い」という仕草をする。何が行って良いだと、最初の男に詰め寄ると、やはり羊飼いだ。すぐに石をつかむ。腹が立って仕方がなかったので、胸蔵をつかむと3人がかりで私を押し倒そうとする。3人を相手に喧嘩をする自信はなかったが、私が180センチ以上の大男で、汚い革ジャンパーを着ているので、彼らはにらむだけで、それ以上は手を出さなかった。
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 それにしても恐ろしい。もし、私がか弱い男だったら、半殺しになっていただろう。昔の閉鎖された田舎では、こんなふうにして、よそ者が殺されたのではないか。彼らは自分たちの村の人間など疑う前に、よそ者を疑う。たぶん羊を殺したのは隣近所の連中に決まっているはずだ。・・牧童の民の野蛮さを思い知らされた。
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 次の日もパンクにあってしまった。シバスの町では、バイクで旅行中のドイツ人の青年に助けを求められた。彼はエンジンがかからなくて困っていた。引っ張てやるとエンジンはかかるが、キックだけではだめだった。彼は予定が同じなら、一緒に行かないかという。また、安いホテルを知っているけど、一緒にどうだという。困っている若者をそのままにもできないので、しばらく行動を共にすることにした。
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 エンジンをかけるたびに、私のバイクで引っ張るのだ。私は、彼に同情して行動を共にするのだが、彼はそう思っていないらしい。たまたま私が同じコースなので、引っ張てくれていると思っているのだ。そんなことで、私はだんだん彼の態度が気にいらなくなった。
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 2000メートルを超す峠を3つも越えなくてはならない。雪と寒さが心配だった。霜で山々は真白になっていた。あまりの寒さに写真撮影もできない。

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 ドイツ青年マリは、オイル缶を落としたまま走っていったり、ガス欠になって私の予備ガソリンをやるなど、少々世話のやける道ずれだった。アスファルト舗装では、私は80キロのスピードで走るのだが、彼は飛ばしてどんどん先へ行った。そして、先の食堂で飯を食っている彼を見つけては、引っ張てエンジンをかけてやりながら進む始末だ。しかも、彼は悪路では極端にスピードが落ちた。たびたび私は、彼が追いついてくるのを待ってやった。彼が転倒したりしてエンジンを止めてしまったら、彼は困るだろうと思ったからだ。
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 2つの峠を越えて、良い道になったところで、ドイツ青年はどんどん先へ行ってしまた。私を待っているようなことはない。3回続けてパンクしたときは夕方になっていたので、そこでキャンプしてしまおうと思った。しかし、彼が心配するだろうし、私がいなくてはエンジンが掛けられないだろうと思って、薄暗くなった山中でパンクを直し先へ急いだ。いくら行っても彼の姿が見当たらない。予定のエルツルムの町の入り口に着いても彼がいない。彼に自分の気持ちが全く通じていないのにがっかりした。
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 もう夜も迫って、キャンプ場所を見つけるのも大変なので、町へ入った。ホテルの若者たちは、大歓迎してくれた。バイクを中庭に置くように勧め、すぐにストーブの火を強くしてくれた。そして、温かいミルクティーと彼らが食べていた食事を私に勧めてくれた。嬉しかった。
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 もう、マリ青年のことは忘れることにしようと思っていたところに、前の通りを聞き覚えのある独特の排気音が通過していくのを聞いたので、すぐに飛び出した。私がいなくては彼はエンジンをかけられないのだ。ホテルへ連れていくと、若者たちは彼を歓迎してくれた。
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 私たちの部屋に若者たちが遊びに来た。私はみんなでおしゃべりしようと思っていたのに、しばらくするとマリは、ここは俺たちの部屋だから、もう出て行ってくれと追い出してしまった。
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 翌朝、ホテルの若者たちは朝食を用意してくれた。マリも喜んで食べていたが、別にそれほど感謝しているふうでもない。出してくれたから食べてやっていると感じだ。彼は旅で知り合った者にいくら親切を受けても、その人たちの住所録を待たないという。見上げたものだ。私はホテルの若者からイスラム教の珠数をもらい、住所を交換し合って出発した。
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 山道にかかると、悪いガキどもが石や棒を持って待っていた。車やバイクに石をぶつけるのだ。マリは以前、この道を通ったことがあり、その時は窓ガラスをガキどもが投げた石で割られてしまったという。その時にガキどもを追いかけて捕まえたところ、村人に取り囲まれて、怖い思いをしたという。まるで無法地帯だ。ただ村の子供や村人を追い回す奴は、敵なんだ。
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 マリ青年の利己主義と行動はさらに目立ち、私はイラン国境を前にして、これ以上一緒に行動するのは嫌になっていた。一緒に走っているのに、彼はさっさと先へ行ってしまい、イラン国境に着いた時には彼の姿は見えなかった。すでに入国してしまったのかと思っていると、どこからか現れた。
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 その時、イランは革命が勃発して不安定だったが、幸い、私たちは時期がよくて、暴動も一段落していて国境は開いていた。入国手続きを終えたとき、すでに3時過ぎだった。彼は200キロ先のタブリッツの町まで行こうという。私は自分のペースを守るために、このマクの町に滞在することにしたが、彼は先へ行くというので、私たちは別れた。私はほっとした。肩の荷を下ろした気分だ。彼はトルコで私を捕まえたように、次の町でもすぐに別のバイク野郎を見つけられると考えたのかもしれない。
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 暗くなってから、ここの谷間の町に横殴りの雪が降り注いだ。彼は、ちゃんとタブリッツの町にたどり着いたのだろかと心配になった。
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 次の朝、町は雪で覆われていた。私は両足を出してノロノロ進んだ。タブリッツの100キロ手前でマリ青年を見つけた。雪の積もった道路端で、彼は牽引用の細いひもを持って震えながら立っていた。その姿は哀れだった。やはり昨夜の雪で進めなくなり、雪の中でキャンプしたという。もう一度、引っ張ってエンジンをかけてやる。
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 雪が降り続き、彼は遅れに遅れた。私は町に入ったところで待っていたが、いっこうにやってこない。エンジンが止まって困っているのではないかと心配になり、引き返した。なんと彼は町の入り口の食堂で、何かを懸命に食べているではないか。雪の吹き溜りを超えて、その店に入ると、彼は「パキスタンまで車で行く連中と親しくなったから、バイクも運んでもらうよ。」と私の心配をよそに、そんなことを言ってくれた。
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 もう、嫌だ。すぐに店を出て、一人で雪の降る道を出発した。あんな奴がバイク仲間だと思うと腹が立つ。
 (マリ青年はバイク野郎ではないのです。ただ、インドやパキスタンへイギリス製バイクを持ち込めば、おんぼろでも高く売れるという動機で、バイクに乗ていたのです。)
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 先の峠では雪のために車がスリップして進めず、仕方なく、引き返してホテルに入った。
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 翌朝は、雪がタイヤと泥除けの間に詰まって凍ってしまっていた。それを溶かして出発する。峠は、やはり車でごった返していた。その間を縫って、峠を越えた。
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 その雪も首都テヘランまで来るとなくなった。

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 テヘラン市内の交通渋滞は、日本どころではなかった。文字通り交通地獄で、バイクでさえ前へ進めなかった。ホテルに着いた私は、多くの韓国の人たちと知り合った。南部の石油基地から逃げてきた人たちだ。イランの暴動が完全な外人排斥運動になり、宿舎などに投石されて逃げてきたという。
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 一応、暴動は納まっていたが、市内のあちこちの銀行や劇場が焼かれていたのを見た。広場には戦車が横たわり、ガススタンドの屋根の上には機関銃が並んでいた。そのスタンドで、また、バイクが故障してしまった。私は機関銃が気になって。落ち着いて修理もできなかった。
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 ホテルにはイタリアのバイク野郎が泊まっていた。イタリア製のモトグッチに乗っていたが、ここまでの雪道で苦労したらしい。もう雪道を走るには御免だといい、この先のアフガニスタンは更に雪が深いからバイクを税関に置いていくと言っていた。しかし、それは考えものだ。こんな治安の不安定な国では、いくら国の機関である税関といっても、信用できるわけがない。ないよと言われたらそれきりだ。
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 私も雪が心配だったので、南部の砂漠地帯を通ってパキスタンへ直接入国するつもりだ。そのルートを彼に教えたが、悪路を行くのも嫌だというのでは仕方がない。そして2週間後にイラン政府は転覆した。彼のバイクはどうなった?。

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