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オートバイの旅(8)-1976/08/28 カナダ [日誌]

オートバイの旅(玉井洋造の旅1976) 日誌

(8)-1976/08/28 カナダ

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1976/08/28  ピーナツバター
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 朝4時ごろ船内の照明がつけられて私は目がさめた。5時にプリンス・ジョージに着く予定だから、そろそろ下船の準備をしなくてはならない。寝袋をまとめて船底にある自分のバイクのところまで来てみると、バイクの風防がバラバラになっていた。私は意外と冷静だった。いつも誰かに自分のバイクが狙われていると思っていたからだろう。幸い、一緒に置いてあったヘルメットがあったので、ほっとしたぐらいだ。
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 そこへ係員がやって来て、夜、船がローリングしたために、バイクが横倒しになり、壊れたという。なるほど横の隣の車にぶつかったらしく、少しへこんでいた。その車の持ち主もやってきた。その人とは、昨夜楽しく旅の話をしたばかりで、いやな気分だった。ほかの車が全部上陸してからも私たちは残り、ジョージが私に変わって話し合ってくれた。そして、船長の車の保管に対する責任として、保険請求ができることになり、どこかで同じ部品を買い、その領収書を保険会社へ送ればよいことになった。その保険金はボストンの近くのジョージの家で受け取れるようにした。
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 フェリーから降りて、カナダの出入国管理事務者へ行き、計画書を見せたら、すぐに入国スタンプが押された。そして、「がんばれよ」と励まされた。
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 ジョージはこの港町に滞在するという。アラスカで会ったポールたちは、アラスカハイウエーを引き返して、もうこの町の家に帰っているだろうから、彼らの家に泊まっていくというのだ。私も彼らが帰っていたら一泊していくことにした。
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 朝6時、レストランへ行く。私はこんな早朝からやっている店があるのかと疑っていたが、ジョージは、こっちは何しろ早いのだという。誰が利用するのだと聞いてたら、みんなだと答えた。行ってみたら、なるほど人でいっぱいだった。
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 メニューはコーヒーと定食で、皿の上にホットケーキ3枚、ハムの焼いたものと目玉焼きだけで3ドル25セントもする。高いなと思ったが、ジョージはアラスカより安いと喜んでいた。
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 コーヒーを4杯もお替りして、ポールの家へ行ってみたが、家の前には車がない。まだ、帰っていないようだった。
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 ジョージがバイクの点検にヤマハの店へ行くのでついていく。ジムという日本人2世の店だ。少しでも日本語が話せたのが嬉しかった。バイクのミスファイヤーのことを話したら、2サイクルオイルを使わずに4サイクルオイルを使っているので、そのためにスパークプラグがかぶりやすくなっていて、高回転の時にリークするのではないかという。
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 ジムはファイトの塊のような男で、頼もしく、日系人離れしていた。ジョージがちょっとガソリンを買いに行ったとき、ジムが日本語で「あの外人さん、親切やね」といった言葉が非常に心に残った。2世のジムがそういうぐらい、ジョージは非常に親切な男だった。
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 ジムに急用ができて、私たちは店の前で4時間待つことになった。その間、自分でできる整備をする。ジムが戻ってきて、整備書を見ながらTX650のタペット点検を終えたときは、もう6時になっていた。
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 再びポールの家に家に行ってみたが、やはり戻っていなかった。この時間になってしまっては、もう出発もできないので、ジョージはポールの友人の家に行こうと言い出した。
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 すぐ近くにその家はあった。ジョージが先に入り、私も後ろからついて入る。何が何やらわからないままに紹介され、握手した。その時までジョージが大切に持っていた缶ビールをプレゼントして、家にいる4人と一緒に飲み、さっそく旅行話が始まった。私たちがバイクの上に置いてあるヘルメットを取りに戻ったとき、ジョージに聞いてみた。「誰がポールの友人なの。」「そんなこと知らない。ポールに友人の住所を聞いておいただけなんだ」
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 そして今から泊めてもらえるように話をつけるという。私はあきれてしまった。突然、初対面の人を訪ねて、一泊させてもらおうというのである。

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 ジョージはビールを飲みながら、楽しそうに旅の話をしている。私は、いつ彼が今夜泊めとくれと言い出すのかと待っていた。ジョージは話が上手くてなごやかな雰囲気になっていた。とても初対面のグループとは思えないぐらいだ。そのうちやっと、その家の奥さんらしき人が、今夜泊まるところがあるのとたずねてきた。私にも、はっきりとその英語が聞き取れた。
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 結論として、地下の部屋で寝ても良いから、食事は自分で買って食べること。冷蔵庫の中の飲み物は使わないことで話が付いた。この家の夫婦は、今日は土曜日なので夕食はレストランでとるらしく、出かけて行った。残りの二人の女子は、デンマークから遊びに来ているようだった。
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 私たちはスーパーへ飛んでいき、スープ、シチューと食パンを買ってきた。一人当たりの費用は2ドル50セント。もちろん、明日の朝食用のパン、ソーセージ、卵も含まれている。
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 楽しい食事だった。ワイワイ騒ぎながら久しぶりに腹いっぱい食べた。ジョージはこの旅に出て以来、朝と夜の2食だけらしい。しかし、彼の食べる量はすごい。私の2倍は軽い。彼はピーナツバターの大好きな、本当のアメリカ青年だ。パンと同じ厚さにピーナツバターを塗って、嬉しそうに食べる。
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 食事をしながら、こちらのマナーを教えてもらった。なるほどと思ったのは、家の中では、すべての部屋のドアは、中に人がいない限り開けたままにしておくのだという。ベッドルーム、トイレもそうだ。それが中に人がいるかいないかのサインなのだ。
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1976/08/29  50セント記念硬貨
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 昼ちょっと前に目がさめた。非常によく眠った。フェリーの中ではあまり睡眠が取れなかったためだろう。昼食も自分たちで作るつもりでいたが、奥さんが皆の食事も一緒に作ってくれた。フライパンで作った大きな卵焼きだ。その時もジョージは、ものすごく食べたので、家の人たちはあきれていたかもしれない。
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 食後、皆で日本のことを中心に話した。そこの家の二人は日本を旅行したことがあったので、話題は尽きなかった。世話になった人にあげるプレゼントは全然持ってきていなかったが、木製のポストカードがあったので進呈することにした。それは旅のお守りとして持ってきていたのだが、奥さんは木製のハガキなど初めて見たので、非常に喜んでくれた。
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 私たちは招かざる客だったのだが、非常に楽しく過ごし、気持ちよく出発できた。ご主人から貴重な50セント記念硬貨をプレゼントされた。彼はアジアに対して非常に興味を持っており、その知識も相当なものだった。奥さんは「彼は暇さえあれば、日本やアジアの地図を見てるんですよ」と言って笑っていた。
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 ジョージはイエローロード16号の入り口まで送ってくれた。ボストンに着いたら、彼の家を訪ねることを約束して別れた。彼の最後の言葉は、日本語で「どういたしまして」だった。
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 16号線を走り出した私は、今日の空気は重たいと感じた。そして風防が壊れていたことを思い出した。全身で風を受けるのだから、その風圧は強い。
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 夕方、テラセの町で食料を買い、その町はずれの崖の下でキャンプ。石が転がっており、いつ石が落ちてくるかわからない。エンジンを停めた以上、もう動くのはいやだ。頭のまわりに荷物を並べて安全を確かめて寝てしまった。



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